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■映画「トロイ」考察■

映画「トロイ」のカテゴリ別裏総括

■大作にありえない作品■

大作系の必須条件はこれです。

「ハリウッド映画の大ヒット作にも、独自の法則がある。製品のコマーシャルを可能なかぎり随所にさりげなく散りばめること、意味深長な対話をウイットの効いた軽妙なやりとりに置き換えること、戦いの場面を多くすること、ハッピーエンドにすること(予算が許すなら、世界を救うことによって)、理屈っぽい要素はどんなものであれ薄めること、などがそうだ。」引用先

「トロイ」はこれの正反対の作品と言えます。
製品のコマーシャルは入らないし
(ブラピが「この作品で男のスカート産業を盛り立てよう」とか言ってたわ)
ばりばり意味深長な対話だらけ
戦いの場面は地味
納得のいかないアンハッピーエンド
予算が許す限りトロイは燃えまくり
理屈っぽい要素は満載だわ

よくこんな脚本で大作を作ろうと思ったものです製作陣。

■人間ドラマが描けていない■Drama(人間ドラマ)

「この脚本が人間が描けてない、薄っぺらい」という評価があります。
一般の人が書いたトロイレビューにこんなのがありました。「戦争映画でどちらか一方に感情移入できないのは失敗作だ」のでこの映画は脚本が不出来だというようなことを述べられていたのですが、私はこの人と全く同じことが理由(どちらの国の主張も言い分も筋が通っている。全面的に共感はしなくても、自分たちの正義に基づいて戦っていると感じる)で、戦争映画としてすばらしいと思うし、脚本の出来栄えにすっかりやられてしまいました。

私はこの映画は主人公個人を描いた物語ではなく、群像劇だと思っています。(監督はじめ、製作者の意図はもちろんそこにあるようですね)この映画は、登場人物のそれぞれが極めて客観的にかつ、きちんと丁寧に描かれていて、物語全体を捉えた時、濃密な人間ドラマが見事なバランスを保って繰り広げられており、そのあまりの出来栄えに驚嘆しました。その濃さに酔った、というか。

でも最初に書いた評価の方はこの作品に酔えなかった。一方に感情移入できないことがその理由として挙げられていますが、これはそもそもそのような見方を望んでいない映画なのだからそこを期待するのは無理と言うものです。

でもこの方の抱いた感想が、この脚本は人物が描けていないと言われる一番の要因なのかな、と思います。人間が描けていると言われる脚本は、どこでそう評価されるかと言うと、おそらくキャラクターへの共感度だと思います。登場人物の体験したことや感情をどれだけ理解し、入れ込めるか、それが重要な判断基準になっていると思うのです。

でこれはもう見る方の観点によって違ってきますが、ヒーロー物で見るか、群像劇で見るかでポイントの絞り方が変わってくる。

大作系だからヒーロー映画を期待する方が殆どでしょう。
前者で見る人は、一人のキャラクターに焦点を置き、あらゆる場面でこのキャラクターに関する情報を得ようと画面を見る。主人公を追いかけて、彼(女)にまとわり付く人達を観ていれば話が流れていく。主人公に対してどのキャラも主人公に何らかの感情を抱く。それは愛だったり憎しみだったり、哀れみだったりします。

でもこれは群像劇です。一人のキャラクターをのみを語りつくす物語ではない。更には戦争と言う、二つの相反する主義主張が真っ向から対立する状況での人間ドラマを、どちらの側からもきめ細かく描いている。

誰もがアキレスを中心にして動いているわけではない。
パトロクロスはアキレスの為に戦ったわけではないけれど、結果はアキレスを復讐に駆り立てることになる。プリアモスはヘクトルの遺体を還してほしいと懇願しにいっただけで、アキレスの心を変えようと思ったわけではない。パリスは当初アキレスのことなどどうでもよかった。しかし最終的にアキレスを殺したのは彼だった。そして、オデッセウスはヘクトルと殆ど会話を交わすことがないのに、アキレスと同じように彼と同じ時間を共有したことを語りついでほしいと願う。

誰の側から見てもちゃんとストーリーがある。アキレスでなくても。ヘクトルやパリス、ヘレン、ブリセイス、アンドロマケ、パトロクロス、プリアモス、アガメムノン、オデッセウス…戦争を通して誰もが何かを想う。

一人に入れ込めるような作りには元々なっていないのです。一人のキャラクターに入れ込んで見ていったとしても、途中で「あれあれ、こっちの人の言い分もなんかわかるわ。狙っていたキャラに入れ込めないわ。」となってしまう可能性大です。

ここが分岐点だと思うのです。
ここで群像劇にシフトして見れればこの映画に酔えるでしょう。
でもあくまでヒーロー物で見ていけば、「ああ、なんか余計な情報多くてあのキャラにいまいちのめりこめなかったわ。脚本が散漫なのね。不出来だわ」と言われても仕方の無いことです。だってそのような映画を意図して書かれた脚本ではないのだから。


この脚本は一方に感情移入させることを意図的に避けていると感じるのです。
それはパリスがヘレンに足の傷を縫い合わせてもらうシーンを例に取れば、私はへレンが「英雄でなくてもいい。ただ二人で年を重ねていきたい」と言ったくだりで、パリスの感情表現があってもいいと思う。女の愛の言葉に対して(あんな情けない事件の後で、彼女は誠実な愛を訴えている)男の方も何か激しい感情表現があってもいいはずだし、そうすれば観客のこの二人への共感度が上がると思うんですよね。

しかしこのカップルはそもそも冒頭から、お互いが激情に駆られるという表現が少ないように感じます。(一方が情熱的に愛を語るとき、もう一方は冷めた印象がある。 ヘレンもパリスの熱烈な愛の言葉に応えるにはテンションが低い気がする)これは意図的にこのカップルに目が行くのを避けているような気がしてならない。

この二人を中心に怒涛の恋愛物を繰り広げることも出来るはずですが、あえてあっさり書いて、パズルのピースの一つとして扱っているような感がある。

それはアキレスがブリセイスをトロイに帰す、別れのシーンでもそうです。ブリセイスのほうは自分の感情を言葉にせず別れます。あそこで語らずとも、あの後帰る途中でプリアモスと掛け合えばそれを表現できる。他の映画ではそれに相当するシーンが挿入されることが多いと思います。少なくとも私はこういうシーンがあると思って初回見ました。でもそれはしない。

そうすれば観客の同情はブリセイスに一気に集まり、この二人に観客の目が集中する。ここでそれを避けるように、こんなにあっさり書いてる気がするのです。

こんな風に物語のバランスを保つために、あえて一人の登場人物の激情を描くのを避けていると思うのですが、その激情が表現されていないから、人間が薄っぺらいといわれるのかなと。感情を表現するに当たって、実にあっさりとしているから、書き込みが足りないと感じるのかもしれません。

 
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