■映画「トロイ」考察■>総括>戦争映画

■映画「トロイ」考察■

映画「トロイ」のカテゴリ別総括

■戦争物として■War(戦争)Action(アクション)Adventure(冒険)

今思えば恥ずかしいことを書いていますが、この作品歴史戦争映画として非常に地味な印象をうけました。では何故地味なのかと考えてみました。
いわゆる普通の戦争映画では描かない、もしくはいやにそこを強調して描くところを非常にさらりと描いている。

本題に入る前に小ネタを少し。

その1:アポロの神殿からヘクトルが一人で(衛兵隊全滅ですか…)去るシーン。ミュルミドン達が主の失った馬を引いています。
死体を回収するシーン。死体と一緒にマメに槍だの盾だのを回収しています。勇ましく戦わない部分が妙にリアルで、なんてみみっちいところまで描くんだこの作品、と思った記憶があります。

その2:この作品で「盾」の機能や有用性は勉強になりました。一騎打ちの時のヘクトルが盾も武器の一つとして使っているし、初戦のヘクトルの盾が半月型なのも馬に乗る時都合がいいからだし、アキレスの盾の凹みもそこに槍を構えるし。とても感心しました。

その3:これはもう本当に個人的に、あの「木馬」にはやられました。今まで見たイラストとかですと張り子の馬みたいなのがほとんどで、あんな資材どっから調達するんだろう?と思っていたら……一寸した衝撃でした。不用になった船をばらしているのですね。これなら曲線表現も可能。しかも筋肉・骨格構造的にもかなりしっかり作ってある。肩のラインなんて本当に惚れ惚れしました。

では本題に。

■死に対する想像
私と師匠は、ギリシア対トロイ軍の戦闘・撤退シーンを観ると非常に凹みます。
最前線のせめぎあい。死体が帯状に累々と重なっている。帯状の意味が分かりますか?当時の歩兵中心の戦いでは前線は死ぬこと前提、自分が死なないと後ろの人は戦えません位の戦い方なのです。だから最前線同士の間に死体が重なるのです。

ギリシア軍が退却するときも、馬車が死体を轢いていきます。兵士は味方の死体を踏んで走ります。人間の尊厳がない。
アクション礼賛な映画だと悪役側が善側の死体を踏み潰すことはある。反戦映画だと痛いぐらいに流血したり、手足がもげたり苦しんでいる兵士の顔アップをいれて「こういう痛かったり可哀想なことになるのが戦争です。だから戦争は反対です」という感じです。

私が「戦争っていやだな」と思った映画に「戦場のピアニスト」があります。
これがもう恐ろしく淡々と人が殺される。主人公の住んでいるアパートの向かい側に住むユダヤ人の家庭にドイツ軍人が入ってきて、そこの老人を殺すシーンがあります。
その方法が、車椅子ごとバルコニーから投げ落とす。それを主人公側(客観的)からのみ撮る。もちろん老人の家族は半狂乱になって嘆き悲しみますが、うっすらとわかる程度にしか描かない。ドイツ軍人に老人を殺して可哀想だという感情がない、人を殺して楽しいという感情すらなく、人を殺しているという意識がまったくない。汚いものを外に捨ててせいせいしましたという気持ちでしかない。そこには人間に対する尊厳は微塵もないわけです。

ヘレンが「夫を失った妻の嘆きが聞こえる」といいます。映像で具体的に示しても良かったはずです。しかしあえて入れないところが戦争における一兵士の人権のなさを強調しているように私は思った。

ヘクトルが「敵に使者を送って死傷者を集めさせろ」と命じたときに部下が「お情け深い」(字幕)「優しすぎやしませんか」(吹替)と言います。
確かに敵に塩を送るその行為は、情け深く優しいことです。が、負傷者を癒し、死者を悼むことが、優し『すぎる』と評価されてしまうのが戦争なのです。

戦争は残酷に人を殺されることも勿論酷いのだけど、それよりも恐ろしいのは「残酷なことをしているという自覚がなくなる」ということだと思っています。
こうしたら相手はどう感じるだろう、って頭が働かなくなる。別の言葉にすれば「想像力」や「共感」を失う事ともいえるでしょう。

「昔の子供は虫とか小動物を沢山殺生してきた。だからこそ命の重みを知ることが出来た」と、よく言われます。この場合虫や小動物が人間だったのです。

ヘクトルは(望まないけれど)「人も殺してきたし、死ぬのも見てきた」から命の重みを知っている。「死」に対する想像が付いている。冒頭の船のシーン。パリスの「ヘレンに付いて行く」という言葉には呆れている感じですが「戦って死ぬ」と言われて怒っています。

パリスは人を殺した事も死ぬのを観たこともないから、「死」に対する想像が付かない。だから「戦って死にます」なんてことを軽々と言えてしまう。「愛の為に死ぬ行為は美しい」という意識がある。ヘクトルはその意識を感じ取って怒るのだと思う。「死は死」(オデッセウス)ですから。栄光でも詩的でも美しくもない。死を美化して軽々しく口にするな。と思っているはず。

感情をストレートに出さないヘクトルの怒りぶりに毎回ドキドキするこのシーン。一寸ずるしてスクリプト見ました。パリスがこのセリフを口にした直後ヘクトルは「激しく笑って」いました…。すごく怖かった。それ程この言葉に激怒していたとは…。

アキレスは、それはもう恐ろしいほどに人を殺している。でもその自覚がまったくない。殺すことに感覚が麻痺して「死」に対する想像が付かない。あえて目を背けている。この点に関して彼は精神的に幼い。

最初にヘクトルに「何人の妻が返らぬ夫を待っていると思うのだ」といわれて「弟に慰めさせろ」って答えている奴です。反省がない。
それが、ブリセイスに散々人殺し呼ばわりされてあそこで「山ほど」と答え、人殺しという評価を受け入れます。ここで「自分は(理由は何にせよ)人を殺している」という自覚をもってなければ、プリアモスに「お前は何人のいとこ、父親・息子・兄弟を殺した?」なんていわれてもアキレスは絶対聞かない。「戦士なのだから戦って、結果的に弱いほうが死ぬのは当たり前だろ?」という結論に行く筈です。


■正義の為の戦争
ツベコベ考えていましたが、戦争を最初から最後までほぼ省略することなく描いた作品って非常にまれなのではないでしょうか?少なくとも私は見たことが有りません。
たいていの作品は戦時中の一幕や、終戦間際〜終戦のような気がします。

パンフレットで監督が「一人の悪玉がいて終わり、という話ではない。そんなたぐいのシナリオは不出来だし、まちがっている」とコメントしています。(正直、不出来、とまで言い切ってしまうところに仰天しました。アメリカ映画の定番中の定番なのに)

他国の王女を奪うという倫理に反したことをしてしまったトロイと、それを取り戻す為(という大儀名分を背負って)いるギリシア。どちらもそれ程俗悪には描かれていません。いっそ、ギリシア軍のほうが悪く、トロイ軍が善良に描かれている印象がある。

でもこれを現代に置き換えてみれば、世界の大部分は大国=ギリシア側からしかこの状況を見ることは出来ない。そして勿論大国側は自らが完全なる正義に基づいて戦っているのだ、と国力の届く限り高らかに告知します。
戦争はどちらかの側からしか見ることが出来ない。そして自分側は正義を成し、相手は悪だと信じて疑わない。作中、帰国パレードであの二人が先頭の理由を考えれば明白です。現実に太平洋戦争中、日本では国民に「鬼畜米兵」なんて言葉を教えていました。

「トロイはギリシアを(女王を奪ったことによって)侮辱した」という大儀名分を後付けにして、強国が属国を従え、戦力にものを言わせて他国を滅ぼす。
本当にあきれるほど、世界は3200年前とまったく変わっていない。このような切り口の映画をこの時期にあの国で作ることに非常に意味を感じます。そしてそのことを声高に叫ばずに「人間は昔も今もさほど変わっていない。そのことに気づかされて驚くことがある」とだけコメントする監督や俳優に、どうかこのメッセージを観客自らの力で汲んで欲しいという声を感じます。

戦争をしている時に敵国側に善良な人々がいることにまでは考えが及ばない。
現実の戦争と言うものは善と悪に分かれて、善が悪を滅ぼすものではないのです。

この作品は「戦争」そのものを描いています。
目にも見えず触れることの出来ないこの「戦争」が生まれ出で、そして誰もがその猛威から逃れることが出来ない、全ての想いや感情、思惑を食いつくし、消えるまでの物語なのです。

 
考察一覧