映画「トロイ」脚本

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映画「トロイ」脚本

これは、海外サイトで取得できる「トロイ」の脚本(勿論英語)を翻訳したものです。
上映当時、親切な方がネットで上げていたものを保存していたのですが、現在は公開されていたサイトも消滅してしまいました。 これだけの貴重なものを無かったものにするのは大変惜しい。迷いに迷った末に一部補正し公開することにいたしました。著作権を侵害する目的ではございません。ご一報いただければ速やかに対処したいと思っておりますのでよろしくお願いいたします。
たったこれだけのことがなかなかできずにおりました…。
注意!■暫定公開ゆえ、暫く告知なく修正が入ります。
1
−テッサリアの谷間
骨ばった、みすぼらしい犬が地面を嗅ぎながら、谷間の広大な平野を歩き回っている。
一見、牧歌的な光景である。生い茂る草、所々に咲く野の花、青い空が広がっている。
だが、犬が走り続けるにつれて、戦闘の兆候が見えてくる。
半分土に埋まった槍と、その横に転がる壊れて血に染まった兜が現れる。犬は立ち止まって兜の匂いを嗅ぎ、また探し物を続ける。やがて犬は立ち止まり、背中の毛を逆立て、耳をピンと立てて唸る。
多数のカラスが浅い渓谷に舞い降りてくる。カラスたちは地面にある何かに群がって、喧しく鳴き交わし、ついばんでいる。
犬は大きく唸り声を上げ、カラスに向かって突進する。カラスたちは安全な位置まで飛び去り、金切り声で抗議する。
渓谷には一人の兵士がうつ伏せに横たわっている。身に着けていた鎧や兜は全て剥ぎ取られ、死体は風雨に曝されている。
犬はゆっくりと死体に近づき、その手の匂いを嗅ぎ、鼻をクンクン鳴らし、指を舐める。
犬は空気の中に何かを嗅ぎ取り、顔を上げる。遠くから微かに音が聞こえる。馬の蹄と馬車の車輪の響き、行進する人々の足音、青銅の鎧と武器がぶつかり合う音。
は死んだ主人を見捨てて逃げ出す。

2
−ミュケナイの軍勢
五千の軍隊が南から谷間に押し寄せる。青銅の鎧と兜、楯で武装した兵士たちは朝日に輝いている。
歩兵と並んで、数多くの御者と槍兵、士官を乗せた馬車が行く。
谷の反対側から三千人のテッサリア軍が現れる。彼らはギリシア勢に比べ統制がとれておらず、武具や兵器も劣って見える。
両軍は戦場に達すると行進を止め、200ヤードの距離を置いて睨み合う。

−ミュケナイの馬車とテッサリアの馬車
両方の側からそれぞれの王が中央へ進み出る。
ミュケナイの王アガメムノンは御者が操る馬車に槍兵とともに乗っている。彼は司令官のシンボルである黄金の笏を持ち、その胸当てには彼の紋章であるαが刻まれている。
彼と相対して、テッサリア王トリオパスが馬車に乗ってやってくる。彼はアガメムノンと対等の自信はなく、明らかに不安そうにギリシア軍を見ている。その手にはテッサリアの王笏が握られている。
二人の王は馬車を降り、お互いに歩み寄る。互いに数秒間見つめ合い、アガメムノンが空を見上げて笑みを浮かべる。
カラスが鳴きながら頭上を旋回している。

アガメムノン:
カラスにはいい日だ。
トリオパス:
儂が言うことは昨日と同じだ。この国から撤退しろ。
アガメムノンは再び笑みを浮かべ、谷間をぐるりと見回す。
アガメムノン:
この国が気に入った。ここに留まろうと思う。この国の兵士も気に入った。昨日は勇敢に戦った、よくやったとは言えないが、勇敢ではあった。
トリオパス:
兵はおまえのためには戦わんぞ。
アガメムノン:
メッサニア人もそう言った。アルカディア人もエピア人も。今では皆、儂のために戦っておる。
トリオパス:
世界中を支配することはできんぞ、アガメムノン。世界はおまえにも広すぎる。
アガメムノンはテッサリア軍を見渡す。
アガメムノン:
殺戮はもう見たくない。昔ながらのやり方で戦を終わらせよう。お互いの最強の戦士を戦わせようじゃないか。
初めてトリオパスに希望の色が見えた。
トリオパス:
もし、こちらが勝ったら?
アガメムノン:
我々は永久にテッサリアを去ろう。儂は寛大な人間だ。こちらが勝っても、おまえはそのまま王座に留るがいい。だが、テッサリア軍は儂の指揮下に入り、儂が必要とする時にはいつでも儂のために戦ってもらう。
トリオパスはよく考えてから頷く。彼は自分の軍勢に向かって叫ぶ。
トリオパス:
ボアグリアス!
テッサリア兵たちはざわめきながら道を空ける。他の兵士たちより1フィートは背の高い巨人、ボアグリアスが軍勢の中から現れる。その顔は古い刀傷にえぐられている。彼は王の前へ歩み出る。
トリオパス:
我が軍で最高の戦士だ。
アガメムノンはボアグリアスが近づくのを見て眉を上げる。
アガメムノン:
アキレス!
ミュケナイ兵たちはアキレスの姿を探し、ざわめく。誰も姿を見せない。アガメムノンは眉をひそめる。
トリオパス:
ボアグリアスの前ではどんな英雄もこうなる。
アガメムノン:
侮辱する相手に気をつけろ、ご老体。
一人の士官がミュケナイ勢の後方から馬を走らせてくる。彼はアガメムノンに頭を下げる。
士官:
アキレスは一緒に来ていません。
トリオパスは声を上げて笑いながら、ほくそ笑んでいるボアグリアスを見上げる。
アガメムノン:
(激怒して)やつはどこにいる!?
士官:
探しにやりました。

−森
少年を乗せた栗葦毛の馬が森を駆けて行く。

−ミュケナイ軍宿営地
少年は宿営地に馬を乗り入れる。川の畔に多数のテントが立ち並んでいる。残っているのは武器や武具の手入れをしている男たちだけである。少年は端のほうにある大きなテントの前で馬を下り、テントの中へ足を踏み入れる。

−アキレスのテントの中
中の暗さに目が慣れるまで、少年は少しの間、足を止める。どうやら昨夜は乱痴気騒ぎだったようで、いたるところに酒瓶や宴会の残り物が散らばっている。
毛皮の敷物の上で、裸の二人の女と一人の男が日に焼けた腕と脚を絡み合わせて寝ている。
少年は割れた酒瓶を避けながら歩み寄り、男の肩に触れようと手を伸ばす。
指先が触れる前にその手はなぎ払われ、少年は手首を掴まれ、敷物の上に引き倒される。
彼が気がついた時には仰向きにされ、喉にはナイフが突きつけられていた。
アキレス:
しー。
少年はアキレスの目をのぞき込む。彼は少しも動いたように見えなかった。いったいどうやって女たちを起こすことなく少年を捉えてナイフを突きつけることができたのか。
アキレス:
夢を見ていたんだ。とてもいい夢だったのに。
少年は恐ろしさのあまり言葉もなく頷く。アキレスは贅肉のない引き締まったボクサーのような体型で、長年の野外生活で顔も身体も色濃く日焼けしている。
少年:
アガメムノン王がお呼びです。
アキレス:
王とは朝になったら話す。
少年:
でも...もう朝です。
アキレスは眉をひそめる。彼は裸のまま立ち上がってテントの入口へ行き、フラップを持ち上げて空っぽの宿営地を見渡す。
少年:
皆、あなたを待っています。

−ミュケナイ軍宿営地
アキレスは戦闘の準備をする。彼は鎧の胸当ての紐を締め、少年は脛当てを着けるのを手伝う。
少年:
噂は本当ですか?あなたは不死の女神の息子だと聞いています。
アキレスは楯を持ち上げる。左の前腕を楯の内側の革紐に通す。
少年:
皆、あなたは不死身だと言っています。
アキレス:
それなら楯なんか邪魔なだけだろう?
少年:
あなたが闘うテッサリア人は見たこともない大男です。
アキレスは少年が乗ってきた馬に跨る。
少年:
僕だったら闘いません。
アキレス:
だから、誰もおまえの名前を覚えないんだ。
アキレスは少年を一人残して、馬を走らせる。

3
−テッサリアの谷間
アガメムノンは戦場の真ん中で、腹心の相談役ネストル王と数人の士官たちと話し合っている。
アキレスが馬を乗り入れるとミュケナイ軍から歓声が上がり、彼の名を呼ぶ。アガメムノンたちは振り返り、アキレスが馬を下りて彼らの方へ近づいてくるのを見る。
アガメムノン:
おまえにたっぷり休んでもらうために戦を明日に延ばしたほうがよかったか?
アキレスは王を無視し、自分を待っている大男を検分する。
アガメムノン:
おまえの無礼には鞭打ちがふさわしいな。
アキレス:
誰が鞭打つって?
彼は剣の柄に手をかけながらアガメムノンに詰め寄る。ネストルが二人の間に滑り込む。
ネストル:
アキレス。
アキレスは怒りの形相でアガメムノンを見据える。二人とも一歩も退かない。
アキレス:
あんたが闘ったらどうだ?王が自分で闘うなんて見物じゃないか。
ネストル:
アキレス。
アキレスはようやくネストルを振り返る。
ネストル:
兵士たちの顔を見ろ。
アキレスは居並ぶ兵士たちの顔を見渡す。
ネストル:
おまえは数百人の命を救えるんだ。おまえの剣の一振りでこの戦を終らせてやれ。おまえの栄誉を称える歌がどれくらい謳われると思う?彼らを家族のもとへ帰してやれ。
兵士たちは畏怖の念を込めてアキレスを見つめている。ついに彼は向きを変え、ボアグリアスに向かって歩き出す。
アガメムノンは憎悪を剥き出しにしてアキレスを見ている。
アガメムノン:
神に愛されし戦士たちの中で一番嫌いなのは、やつだ。
ネストル:
我々には彼が必要です、王よ。
アガメムノン:
今はな。

−アキレス
アキレスが40ヤードの距離まで迫ると、ボアグリアスは槍を頭上に振りかざしながら味方の軍勢を振り返る。テッサリア勢は青銅の楯と剣をガンガン打ち合わせて歓声を上げる。
アキレスは前進し続け、ふと上空のカラスに目を向ける。
ボアグリアスは向き直り、槍を投げる。槍の刃先は太陽の光を浴びてきらめき、アキレス目がけて真っ直ぐに飛ぶ。
アキレスは歩調を乱さず楯を持ち上げる。槍の刃先は表面の青銅を貫通し、彼の顔から数インチのところで分厚く裏張りされた革に止められた。
アキレスは前進し続ける。
ボアグリアスはぶつぶつと文句を言いながら、それでも2本目の槍を取り上げ、放つ。アキレスは再び楯を掲げ、槍は楯を貫くが、アキレスは無傷である。
アキレスは楯を投げ捨て、歩き続ける。ボアグリアスは途轍もなく大きな剣の鞘を払う。彼は戦闘の雄叫びを上げながらアキレスに突進する。
ボアグリアスが剣を振り上げた時、アキレスが恐るべき速さで突っ込んでくる。二人の間の距離をそれほど素早く縮めるのは不可能なはずなのに、彼はやってのけ、その剣をボアグリアスの鎧の
胸当てに突き通した。
アキレスは大男の胸から剣を引き抜き、振り返ることなく、そのままテッサリアの隊列へ向かって歩き続ける。
ボアグリアスは胸当てに空いた穴を見る。血が噴き出し、磨き上げられた青銅を染める。彼は前へ倒れる。
ミュケナイ軍から勝利の歓声が湧き上がる。
アキレスは群れ固まるテッサリア勢の前に立っている。彼は兵士たちの顔を眺め回す。
誰も彼と目を合わせようとはしない。やがてトリオパスが兵士たちの中から現れる。
トリオパス:
戦士よ、おまえの名は?
アキレス:
アキレス。ペレウスの子だ。
トリオパス:
アキレス。その名は忘れるまい。
トリオパスはアキレスに重々しい黄金の笏を差し出す。
トリオパス:
テッサリアの統治者はこの笏を持つ。おまえの王に譲ろう。
アキレス:
俺の王じゃない。
アキレスは西へ歩き、両軍から遠ざかって行く。兵士たちは沈黙の中で彼を見送る。

4
−イオニア海−夕暮れ
ワイン色の黄昏の海を眼下に臨み、北へ目を向けると、やがてペロポネス海岸が見えてくる。
海岸線の唯一の切れ目であるラコニアの入り江から内陸への道を辿る。
入り江の端は天然の港で、高いマストを持つ軍船が何隻か停泊している。どの船も帆を
下ろし、櫓は固定され、漕ぎ手の姿は見えない。港には小さな漁船が数多く散らばっている。
最も高い丘の頂上に、重厚な壁をめぐらせた宮殿がスパルタ全土を見下ろして建っている。
羽飾りの兜を着け、長い槍を掲げた歩哨が定位置についている。
(声だけが聞こえて)
メネラウス:
トロイの王子たち、我々が共にする最後の夜だ。王妃と儂が歓待しよう。

−スパルタの宮殿−大広間
スパルタの王メネラウスは、松明に照らされた広間と同じくらいの幅があるどっしりとしたテーブルの上座に立っている。
歴戦の戦士であるメネラウスは宴の半ばですでに酔っている。
メネラウスの隣にいるのは、白いガウンを纏って俯き、彼の言葉を適当に聞き流している妻のヘレンである。生花を髪に編み込んだ彼女はあまりにも美しすぎて、まるで別世界の存在に見える。
広間にいるただ一人の女性であり、ただ一人白い服を身に着けているヘレンは、薄汚れて見えるスパルタとトロイの戦士たちの中で輝いている。
その場の全員が、野鳥や魚、子豚の料理を盛った大皿や果物のボウルを満載したテーブルについている。
メネラウスは黄金の杯を掲げ、主賓であるヘクトルとパリスに乾杯している。
ヘクトルはその場にいる誰よりも美男でも背が高いわけでもないが、誰よりも強い印象を与え、その堂々とした態度は彼が生まれながらの指導者であることを認めさせる。
パリスの外見はその場で最高の美男子である。彼はメネラウスを見ておらず、その目はヘレンに注がれている。
メネラウス:
確かに我々はかつて敵同士だった。スパルタとトロイの間には幾多の戦いがあった。我々は健闘した!
メネラウスの兵たちは酔っ払った声で喝采する。ヘレンはふと目を上げ、パリスの凝視に出会う。
メネラウス:
けれど、儂は常々お父上を尊敬していた。プリアモス王は良き人、良き王だ。
儂は彼を敵として尊敬してきたが、今は盟友として尊敬する。
今度は広間中から更なる喝采が起きる。
メネラウス:
ヘクトル、パリス、若き王子たちよ。こちらへ来て、ともに乾杯しようではないか。
ヘクトルは立ち上がるが、パリスは立たない。彼はまだヘレンを見つめている。ヘクトルが彼の肩をそっと肘で突くと、やっと立ち上がる。
メネラウス:
平和のために乾杯だ。
ヘクトルは頷き、彼の杯を掲げる。
ヘクトル:
トロイとスパルタの平和のために。
王と王子たちは杯を一気に飲み干し、ドンとテーブルに置く。
メネラウス:
神々よ、狼は荒野に、妻たちはベッドに留め置きたまえ!
広間の全員が喝采し、勢いよく立ち上がる。
客たち:
スパルタのために!トロイのために!
楽団が音楽を演奏し始める。召使いたちがワインを注いで回る。
ヘレンの侍女のひとり、ポリドラが魅力的な若い娘の一団を連れて広間に入ってくる。
戦士たちは娘たちを見てどよめく。ほどなく、どの娘も酔った兵士たちの側に侍る。
メネラウスはヘクトルを熱烈に抱擁する。ヘクトルは堂々と抱擁を受け止める。王が彼を放すと、ふたりの杯からワインが数滴、床にこぼれ落ちる。
ふたりは残りのワインを飲み干す。メネラウスはヘクトルの上腕を掴む。召使いが杯を満たす。
メネラウス:
力強い腕だ。我々の和平が成立したことを神に感謝せねば。あまりにも多くの兵士がこの腕に倒されてきたのを見てきたからな。
ヘクトル:
二度とそのようなことは無いよう願います。
メネラウス:
剣の技できみを凌ぐ男が一人だけいる。アルゴー号に乗っていたペレウスの息子だ。
ヘクトル:
アキレス。
メネラウス:
あの狂った男は、侮辱されたら、神にだってその手で槍を投げつけるだろうよ。
メネラウスは明らさまにヘクトルを見つめているポリドラを示して
メネラウス:
あそこにいる娘がわかるか?きみにと思って呼んでおいた。可愛い雌ライオンだ。
メネラウスは、目を伏せて微笑んでいる娘に笑いかける。ヘレンはこの遣り取りに気づくが、無視して、側にいる他の侍女と話している。
ヘクトル:
感謝します。しかし、妻がトロイで私の帰りを待っています。
メネラウス:
儂の妻はすぐそこで儂を待っている。
メネラウスはヘクトルに近づき、陰謀めかして囁く。
メネラウス:
女房は子供を作るためにいるもんだ。わかっているだろ?楽しんでくれ。
ヘレンは立ち上がり、広間を出て行く。メネラウスは気づかないが、ヘクトルは気づく。彼はメネラウスに向かって杯を掲げる。
ヘクトル:
スパルタで最高のワインですね。
メネラウスは笑い、ヘクトルと飲み交わす。
スパルタの将軍と話していたパリスが辞去し、ヘレンが去ったのと同じ方向へ出て行く。ヘクトルは不安を覚えながら、それを見ている。

−ヘレンの私室
部屋の中は数多くの蝋燭の灯りで照らされている。ヘレンは髪に飾った花を外し、水を満たしたボウルに落とす。彼女は物音を聞きつけ、目を上げる。パリスが戸口に立っている。
数回の呼吸の間、二人は沈黙し、互いに見つめ合う。
ヘレン:
ここにいてはいけないわ。
パリスは後ろ手に扉を閉める。
パリス:
昨夜もそう言った。
ヘレン:
昨夜のことは間違いよ。
パリス:
その前の夜は?
ヘレンは髪から花を外し続けるが、微笑みを隠せない。
ヘレン:
今週は間違いばかり。
彼は彼女に近づく。
パリス:
行ったほうがいい?
彼の手はすでに彼女に触れ、剥き出しの首筋を辿り、背中を撫で下ろし、尻に留まる。
唇は彼女の耳にごく近く、彼女は目を閉じている。
ヘレン:
(囁き声で)そうよ。
パリスは彼女の首筋に、耳に、閉じた瞼に口づけする。ヘレンの顔から、夫の側にいた時に浮かべていた強張りは消え、代わりに恍惚とした表情が浮かぶ。
パリス:
(囁き声で)どこへ行けばいい?
彼女は振り返り、彼に口づけする。飢えた、暴力的でさえある欲望のこもった口づけを。
彼女は彼の服を脱がせ、引き寄せる。
ヘレン:
(囁き声で)遠くへ。ずっと遠くへ。
瞬く間に白いガウンは彼女の足元に落ちる。彼は彼女の剥き出しの身体を驚嘆して見つめる。彼は口を開きかけるが、彼女が口づけで塞ぐ。ふたりはベッドに沈んでいく。

−大広間
ワインの空容器が次々に重ねられるにつれ、辺りはますます騒がしくなる。スパルタとトロイの兵士からなる即興の合唱隊が酔った声で戦闘の歌を歌っている。
ポリドラはメネラウスの膝に座っている。彼女はメネラウスの耳に何事かを囁き、彼は笑いながらワインを飲み干す。猪肉の欠片が彼の赤く分厚い髭に斑模様を作っている。
ヘクトルは側に座り、半ば上の空で、スパルタの将軍たちと会話を交わしている。彼が弟の不在に心を曇らせているのは明らかである。

−ヘレンの私室
ヘレンは裸でベッドに横たわっている。蝋燭の灯りの中で、彼女の脇腹に銅色の汗の筋が地図を作っている。
彼女は、ベッドの脇に立って服を着ているパリスを見ている。
パリス:
贈り物があるんだ。
彼は服の中から小さな真珠を銀で編んだ首飾りを取り出し、ベッドの上で彼女の隣に座る。
パリス:
プロポンティス海で採れた真珠だ。
パリスは彼女の首に首飾りをかける。
ヘレン:
とても綺麗ね。
でも、着けられないわ。メネラウスに知られたら、ふたりとも殺される。
パリス:
やつを恐れるな。
ヘレン:
死ぬのは怖くない。私が怖いのは、明日あなたが帰国すること、二度と会えないと知りながら見送らなければならないことよ。
彼女は彼の顎の線に指を這わせる。
ヘレン:
あなたがスパルタに来るまで私は幽霊だった。歩いて、食べて、海で泳いでいても私は幽霊だった。
パリス:
明日を恐れることはないよ。
ヘレンはその言葉の意味がわからず、じっと彼を見る。
パリス:
一緒に行こう。
長い時間、ふたりは互いの目を見つめ合う。
ヘレン:
からかわないで、トロイの王子様。からかわないで。
足音と笑い声がドアの外に聞こえ、ふたりを驚かせる。パリスはベルトに付けたナイフを抜きかける。ドアの外にいたのが誰であれ、足音は通り過ぎる。パリスはナイフをしまい、ベッドの
脇に跪き、彼女の手をとる。
パリス:
きみが一緒に来れば、僕らに安息の時はない。人々に追われ、神に呪われるだろう。けれど、僕はきみを愛し続ける。この身体が焼かれるその日まできみを愛し続ける。
ヘレンはあり得ない可能性をじっと考えながら、パリスの目を見つめている。

−宮殿の中庭
トロイの兵士の一団が、中庭の真ん中に設けられた篝火を取り囲み、山羊革と毛皮の上に横になっている。何人かは眠り、何人かは飲み続け、古いトロイの歌を歌っている。
ヘクトルは火の側に立ち、アポロ親衛隊の隊長、雄牛のように逞しいテクトンと打合せをしている。
ヘクトル:
出航前にポセイドンにふさわしい供物を捧げなければ。これ以上トロイに未亡人を増やしたくないからな。
テクトン:
山羊と豚とどちらにします?
ヘクトル:
海神はどちらを好むかな?
テクトン:
(微笑んで)神官を起こして訊いてみましょう。
テクトンは頭を下げ、中庭を出て行く。ヘクトルはパリスが篝火の前をこっそりと通り過ぎ、自分の宿舎へこそこそと歩いて行くのを見つける。
ヘクトル:
パリス!
パリスは振り向き、まるで今夜初めてヘクトルに会ったかのように笑って手を振る。彼は兄のもとへぶらぶらと歩いてくる。
ヘクトル:
今夜はベッドにいるべきだな。向こう数週間は陸の上で眠れないのだから。
パリス:
海の上で眠るのなんか何でもないよ。海の妖精たちが子守唄を歌ってくれるからね。
ヘクトル:
で、今夜は誰がおまえに子守唄を歌ってくれたのかな?
パリスは一瞬凍りつくが、すぐに落ち着きを取り戻す。
パリス:
今夜?今夜は漁師の妻だった。かわいい女だよ。
ヘクトル:
漁師に捕まらないよう祈るよ。
パリス:
彼が気にするのは魚だけさ。
パリスは微笑み、歩き去ろうとするが、ヘクトルが彼を捉まえる。
ヘクトル:
我々がなぜスパルタにいるか、わかっているだろうな?
パリス:
和平のためだろう?
ヘクトル:
それにスパルタの王メネラウスがどれほど強力な男かもわかっているな?
彼の兄、ミュケナイ王のアガメムノンがギリシア中の軍隊を動かせることも?
パリス:
それが漁師の妻と何の関係があるのかな?
ヘクトルはパリスの顔を両手で挟み、まじまじと見つめる。けして手荒な仕草ではないが、もちろん優しくもない。
ヘクトル:
パリス、おまえは私の弟だ。おまえを愛している。
だが、もし、おまえがトロイに害を及ぼすようなことをしたら、その可愛い顔を可愛い頭蓋骨から引き剥がしてやる。
彼はパリスの頭にキスする。
ヘクトル:
少し眠れ。朝には出航する。
パリスはこの遭遇に少なからず動揺し、覚束ない足取りで立ち去る。

5
−イオニア海−朝
トロイの船が海上を行く。

−船の甲板
風が強く、櫓を漕ぐ必要はない。乗組員たちは帆の手入れをするか、サイコロで遊んでいる。
ヘクトルは舳先にいて、手すりに寄りかかり、木のライオンを彫っている。パリスが近づく。
パリス:
素晴らしい朝だ。ポセイドンが僕たちの航海を祝福しているんだね。
ヘクトルは青い空をちらっと見上げる。
ヘクトル:
朝には神に祝福されても、午後には呪われることもある。
パリスは彼の兄が木を彫るのを見ている。彼は再び口を開き、これまでになく真剣な口調で話す。
パリス:
僕を愛している?兄さん。
ヘクトルは手を休め、微笑んで答える。
ヘクトル:
今度は何をした?
パリス:
見せたいものがあるんだ。
パリスは船の内部に続く階段へ向かう。ヘクトルはしばし彼を見つめ、後に続く。

−船の内部
パリスは船室の扉の前で躊躇う。
パリス:
どうか怒らないで...
ヘクトル:
扉を開けろ。
パリスは扉を開ける。フードのついたローブを纏ったヘレンが微かに揺れるハンモックの端に腰掛けている。彼女は立ち上がる。ヘクトルは信じ難い思いで彼女を見つめる。彼は振り向き、パリスを睨みつける。
ヘクトル:
おまえが弟でなければ、この場で殺しているところだ。
パリス:
ヘクトル...
ヘクトルはすでに部屋の外へ出ている。ヘレンはパリスを見る。
ヘレン:
私たちには、けして安らぎはないのね。
パリス:
安らぎなんか欲しくない。僕が欲しいのはきみだ。
彼は彼女に口づけする。絶望して、飢えて、世界中を敵に回しているような口づけを。そして、彼は兄の後を追う。

−スパルタの宮殿−ヘレンの私室
10人の兵士を従えたメネラウスが荒々しくヘレンの私室に入ってくる。
彼は王妃の宝石を磨いているポリドラを見つける。メネラウスは彼女の腕を乱暴に掴む。彼女は怯える。
メネラウス:
あれはどこだ!?
ポリドラ:
誰のことです?王よ。
メネラウスは剣を抜く。
メネラウス:
神々の父に誓って、本当のことを言わなければ、おまえの腸を引きずり出してやる。
侍女は話そうとするが、言葉が出ない。が、幸いなことに、その時、王家の相談役ヒッパサスが年老いた漁師を連れて部屋に入ってくる。
ヒッパサス:
王よ、王妃はトロイ人と逃げました。
メネラウスはヒッパサスをまじまじと見る。彼は言葉を飲み込み、漁師を指し示す。漁師は漁に出ているほうがマシだと思っているのが、ありありとわかる。
ヒッパサス:
この老人は王妃が彼らの船に乗り込むのを見たそうです。
メネラウスは侍女を離し、漁師に目を据える。
メネラウス:
トロイ人だと?
漁師:
若い王子、パリスです。王妃は...
メネラウスは手を上げる。漁師は口をつぐむ。
その場の全員が王に注目する。王が感情を爆発させるのを待っているが、不思議なことにその知らせが彼を今やるべきことに集中させたようである。
メネラウス:
船の用意をしろ。

−トロイの船
ヘクトルは断固とした早足で歩く。パリスがぴったりと後についている。水先案内人が舵をとっている。
ヘクトル:
(水先案内人に)反転しろ。スパルタへ戻る。
パリス:
待って。待って!
ヘクトルは素早く弟に向き直る。
ヘクトル:
このバカ。
パリス:
僕の言うことを聞いて。
ヘクトルは弟を後ろの方へ小突いて行く。兄の圧倒的な力は誰の目にも明らかで、乗組員たちは畏れ、沈黙して見守る。
ヘクトル:
何をしたかわかっているのか?どれだけの年月、父上が平和のために尽くしてきたか。いったい何人の兄弟や従兄弟を戦場で亡くしたかわかっているのか?
パリス:
彼女を愛しているんだ。
ヘクトルの顎の筋肉が頬に向かって盛り上がる。
ヘクトル:
もう一言でも口にしたら、おまえの腕をへし折ってやる。
おまえにとっては何もかもがゲームだ。違うか?
おまえは街から街へとふらついて、商人の妻や神殿の女とベッドを共にしてきた。
それで愛がわかったと思っているのか?父上の愛はどうだ?
おまえは彼女をこの船に乗せた時、父上に唾をかけたんだ。
祖国への愛はどうなんだ?おまえはあの女のためにトロイを焼き尽くそうと
しているんだぞ。
パリスは口を開こうとするが、ヘクトルが警告するように指を突きつける。
ヘクトル:
あの女のために戦争を始める気はない。
パリス:
話してもいい?
兄さんの言うことは正しい。兄さんにも父上にも悪いことをしたと思っている。
ヘレンをスパルタへ連れ戻すなら、それでもいい。僕は一緒に行く。
ヘクトル:
一緒に行く?殺されるぞ。
パリス:
戦って死ぬよ。
ヘクトルは苦々しく笑う。彼は弟の服の襟を掴む。
ヘクトル:
戦って死ぬ、か。おまえには英雄的に思えるんだろうな。違うか?
教えてくれ、弟よ、おまえはこれまで人を殺したことがあるか?
パリス:
ない。
ヘクトル:
戦って死ぬ人間を見たことは?
パリス:
ないよ。
ヘクトルの顔が怒りで紅潮する。パリスは目を逸らそうとするが、ヘクトルがそうはさせない。
ヘクトル:
私は人を殺してきた。人が死ぬのを見て、断末魔を聞いて、死の匂いを嗅いだ。
そこには栄光もなければ、詩的なものもない。おまえは愛のために死ねると思っているだろうが、死のことは何も知らない。愛のことも何も知らない。
パリス:
同じことだよ。僕は彼女と行く。
ヘクトルは弟を放し、海を見つめる。
パリス:
兄さんに僕の戦いに加わってくれとは言わない。
ヘクトルは波間を覗き込んだまま、首を振る。
ヘクトル:
もう言っている。
ヘクトルは長い間、黙り込んだままだったが、やがて彼の指示を待つ水先案内人のもとへ向かう。
ヘクトル:
トロイへ。
ヘクトルは弟から歩み去る。

−ミュケナイの港
3隻の軍船が港に碇を下ろす。
メネラウスはヒッパサスと兵士の一団を従えて、ミュケナイの小高い丘の頂上に立つ宮殿から続く長い石の階段を上る。

−ミュケナイの城−玉座の間
メネラウスは彼に従う者たちと共に玉座の間へ入って行く。征服した国々からの様々な財宝、複雑な黄金細工の壺や彫像などが広間に溢れている。武装した守衛兵が定位置に立つ。
アガメムノンは見事な彫刻が施された頑丈な樫の玉座に座っている。
2人の側近がスパルタ人たちが入ってくるのを見て、王の顔を窺う。メネラウスが近づくと彼らは退出する。
アガメムノンは立ち上がる。2人の王は抱擁を交わす。
アガメムノン:
おまえの使者は2日前にやってきた。何が起きたかは知っている。
メネラウスの顔は暗く、やっとのことで憤怒を押し隠している。
メネラウス:
あれを取り戻す。
アガメムノン:
もちろんだとも。美しい女だからな。
メネラウス:
あの女を取り戻して、俺がこの手で殺してやる。この地上からトロイを焼き尽くすまで俺に安らぎはない。
アガメムノン:
トロイとの和平を望んでいたのでは?
メネラウス:
あんたの言うことをきくべきだった。
アガメムノン:
平和は女と臆病者のものだ。帝国は戦で鍛えられる。
メネラウス:
俺はこれまでずっとあんたの側で、あんたの敵と戦ってきた。年長のあんたが栄光を手に入れるのは世の慣わしだ。俺がこれまで不満を言ったことがあるか?
何かを頼んだことがあるか?
アガメムノン:
一度もない。おまえは誇り高い男だ。ギリシア中がそれを知っている。
メネラウス:
トロイ人は俺の面子を潰した。俺への侮辱はあんたへの侮辱だ。
アガメムノン:
そして儂への侮辱は全てのギリシア人への侮辱だ。
メネラウス:
共に戦ってくれるか?兄上。
メネラウスは手を差し出す。アガメムノンは彼の目を見据え、やがて頷き、弟の手をしっかりと握る。

6
−ミュケナイの城−玉座の間−夜
アガメムノンは松明の灯りに照らされた大広間を一定の歩調で歩き回っている。ネストルは木のテーブルの前に座っている。彼の前にはなめした山羊革に描かれたギリシアと周辺国の大まかな
地図が広げられている。
アガメムノン:
儂は常々、弟の妻は愚かな女だと思っていたが、役に立つこともあるのを証明してくれた。共通の敵ほど人を結束させるものはない。
ネストル:
トロイはこれまで征服されたことがありません。けして征服できない国だと言われています。
アガメムノン:
儂がまだ征服しようとしていないからな。
老いぼれのプリアモス王め、高い城壁の中で誰にも手が届かないと安心しきっておる。太陽神に守られているつもりだろうが、神が味方するのは強者だ。
トロイが陥落すれば、エーゲ海は儂のものだ。
ネストル:
ヘクトルが指揮するのは東方最強の軍隊です。トロイの城壁は10年の包囲戦にも持ち堪えるでしょう。
アガメムノン:
10年もかけるつもりはない。世界中の誰も見たことのない大軍で攻撃する。
ギリシア中の王とその軍隊を集めろ。朝になったら使者を送れ。
ネストルは腰を上げ、立ち去りかけるが、
ネストル:
最後に一つだけ。アキレスと彼のミュルミドン人部隊が必要です。
アガメムノンは首を振る。
アガメムノン:
アキレスは言う通りにならん。やつはトロイ人と同様に我々に歯向かってくる。
ネストル:
彼を制御する必要はありません。ただ解き放ってやればいいのです。彼は殺すために生まれてきた男です。
アガメムノン:
そう、やつは天性の殺し屋だ。だが、やつは王には従わん。儂の築いたもの全てを脅かす。
儂が統一する前、ギリシアは戦士と家畜泥棒の集まりに過ぎなかった。儂が全ての国々を統一したのだ。可能な時には約定で、必要とあらば剣の力で。
儂は有象無象から国家を創り出したのだ。
儂は未来を築くのだ、ネストル。アキレスは過去の遺物だ。いかなる旗の下にもつかず、どの国にも忠誠を誓わない。
ネストルは敬意を表し、間を置いてから答える。
ネストル:
おっしゃることは真実です。ですが、我々はいったいどれだけの戦を彼の剣の切っ先で勝ち取ってきたでしょう?
これはかつて誰も目にしたことのない大戦争になります。我々には最強の戦士が必要です。
アガメムノンは考え込みながら歩き回り、やがて
アガメムノン:
説得できる男は一人だけだ。
ネストル:
朝になったら船を出しましょう。

−イタカ
痩せてヒゲに覆われた羊飼いがイオニア海を望む丘の上に座っている。彼の側には忠実な猟犬アルゴスが座っている。彼らは使者の一団が丘の斜面を登ってくるのを見ている。使者たちは頂上に着いた時にはすっかり息を切らしていた。
使者:
やあ、兄弟。この辺りにオデュッセウス王がいると聞いて来たんだが。
羊飼い:
オデュッセウス?あのろくでなしめ、俺のワインを飲んで金を払ったためしがない。
使者:
王にはもう少し敬意を払ったほうがいいぞ、友よ。
羊飼い:
敬意を払え?鼻に拳骨をお見舞いしてやりたいよ。やつは年中、俺の女房の服を脱がそうと追いかけ回しているんだからな。
使者たちは当惑し、立ち去ろうとする。羊飼いは彼らを見送り、犬に話しかける。
羊飼い:
アガメムノンの将軍たちが使者よりも賢いといいな。
使者の一人が振り向く。
使者:
今なんて言った?
羊飼いはアルゴスの耳の後ろを掻いてやる。犬は喜んで尻尾を振る。
羊飼い:
トロイ人と戦う手助けをしろと頼みにきたんだろう。
使者:
あなたは...
使者たちは混乱した目配せを交わし、やがて畏れ入って頭を下げる。
使者:
お許しを。オデュッセウス王。
オデュッセウスは立ち上がり、犬を見下ろす。
オデュッセウス:
この犬ともしばらくお別れか。
使者:
アガメムノン王より、お願いしたいことが。
オデュッセウスは笑みを浮かべ、犬の頭を撫でる。
オデュッセウス:
もちろんそうだろう。

7
−海沿いの崖−午後
アキレスは海を臨む崖の上の蔦に覆われた神殿の廃墟に立ち、従弟のパトロクロスと剣の稽古をしている。二人が使っているのは木製の練習用の剣である。
パトロクロスには素質があり、引き締まった身体つきで若い闘志に溢れ、派手に動いている。
彼の剣はそれ自体が生きているかのように空中で旋回する。
アキレスは対照的に効率的な戦い方の見本のようだ。無駄な動きをせず、相手が消耗するのを待つ。
パトロクロスは攻勢に出る。アキレスはステップを踏み、頭を傾けて、次々と彼の突きをかわす。
一瞬の隙をついて彼は前に出て、パトロクロスの腹を木剣の先で軽く叩く。
アキレス:
おまえ、太ったんじゃないか?
パトロクロスはにやりと笑い、火のような勢いで剣を振り回しながら反撃する。アキレスは弧を描く剣をひょいひょいと避けながら、パトロクロスの背後に回り、背中を剣で突つく。
アキレス:
派手な剣術だな。女の子なら感激するだろう。
パトロクロスは鼻を鳴らし、再び突進する。今度ばかりは本格的な対決に発展し、攻守ともに素晴らしい動きを見せる。
パトロクロス:
少しは怖いだろ?
アキレス:
ものすごく怖い。
アキレスは右手を掲げ、パトロクロスはその一撃を受けようと剣を上げる。だが、アキレスはすでに右手に剣を持っていなかった。
アキレスは左手に持ち替えた剣をパトロクロスの腹に突きつける。パトロクロスは木剣を見下ろす。
パトロクロス:
剣は持ち替えるなと言ったじゃないか。
アキレスは頭をぐるりと回し、首の力を抜く。
アキレス:
やり方がわかれば俺の言うことは聞かなくていい。
アキレスは木剣を投げ捨てる。彼は遠くからの物音を聞きつけて頭をもたげる。パトロクロスは剣の練習に没頭し、物音に気づかない。
アキレスは地面に置いてあった槍の柄に足を添える。信じられないほど素早い一連の動作で槍を空中に蹴り上げて受け止め、真反対の方向へ投げ飛ばす。
青銅の刃先は神殿の壁の間を抜け、年輪を重ねた樅の木の幹に突き刺さる。

黒い馬をひいたオデュッセウスが、ほんの数インチ先で揺れている槍の柄に行く手を遮られて立ち止まっている。
彼はしばし槍を見つめた後、その下をくぐり、再び歩き出す。

オデュッセウス:
きみのこの歓迎の噂は、すぐに伝説になるぞ。
アキレス:
その笑い方は気に入らないな、友よ。あんたがそういう笑い方をする時は俺を戦争に誘う時だからな。
(オデュッセウスに)これは従弟のパトロクロス。(パトロクロスに)こちらはイタカ王、オデュッセウス。
オデュッセウス:
パトロクロス?メノティウスの息子の?
パトロクロスは頷く。オデュッセウスは彼の肩をぐっと掴む。
オデュッセウス:
ご両親を存じ上げていたよ。残念だったな。
パトロクロスは足元に目を落とし、再び頷く。
オデュッセウス:
それで今はこの男がきみの世話係か?アキレスその人から学べるとは、ギリシア中の少年の嫉妬の的だな。
(アキレスに向かって)話があるんだが。
アキレス:
アガメムノンの使いで来たとは言うなよ。
オデュッセウスは躊躇う。アキレスは首を振る。
アキレス:
これまでいったいどれだけ俺があの王の中の王のために汚れ仕事をこなしてきたと思う?そうやって俺がもたらしてやったものに、やつが敬意を払ったことがあるか?
オデュッセウス:
アガメムノンのために戦ってくれとは言わない。ギリシアのために戦ってくれ。
アキレス:
なぜ?ギリシア人はお互い戦うのに飽き飽きしているんじゃないのか?
オデュッセウス:
いま起きていることだ。
アキレス:
トロイ人に何かされた覚えはない。
オデュッセウス:
彼らはギリシアを侮辱した。
アキレス:
彼らが侮辱したギリシア人は一人だけ、自分の女房を繋ぎ止めておけなかった男だけだ。それが俺に何の関係がある?
オデュッセウス:
戦争がきみの仕事だろう、友よ。
アキレス:
そうか?俺は戦場の娼婦か?俺の剣は売り買いできるものだと?俺は暴君の雇い人として名前を残したくはない。
オデュッセウス:
アガメムノンのことは忘れろ。私のために戦ってくれ。きみが私の側にいてくれれば、妻が安心する。私自身も安心だ。
パトロクロス:
アイアスもトロイへ行って戦いますか?
オデュッセウス:
もちろん。アイアスを知っているのか?
パトロクロス:
斧の一撃で樫の木を倒せるって噂を聞きました。
アキレス:
木は撃ち返してこないからな。
オデュッセウスはくつくつと笑っているが、少年の熱狂ぶりに注意を引かれる。
オデュッセウス:
我々はかつてない大艦隊を繰り出す。千隻は行くかな。
パトロクロス:
千隻も!ヘクトル王子は本当に噂通りのすごい戦士ですか?
オデュッセウス:
トロイで最高の戦士だ。ギリシア人も敵わないという者もいる。
もしきみの従兄が来なくても、きみは来てくれるだろう?パトロクロス。
我々にはきみのような強い若者が必要なんだよ。
パトロクロスは有頂天になり、従兄に目を向ける。
アキレスはオデュッセウスの肩に腕を回し、顔を寄せる。表情は親しげだが、手には間違いようのない力を込めて。
アキレス:
俺に策を弄したければ、やるがいい。だが、従弟は放っておいてくれ。
オデュッセウス:
きみには剣、私には策略。我々は神が与えたもうた才能を活かしているんだよ。
オデュッセウスは馬のもとへ戻り、跨る。
オデュッセウス:
トロイへは3日以内に出発する。この戦争は歴史に残る。そこで戦う英雄たちの名も。
パトロクロスは熱心に、じれったそうに彼が走り去るのを見送っている。

8
−海岸−夕暮れ
アキレスが小高い砂丘を急ぎ足で横切ってくる。彼は遠くに一人の女性の姿を認める。

−渚
アキレスは彼の母親のテティスが渚に佇んでいるのを見つける。彼女の長い黒髪は灰色になりかかっている。彼女は好みに合う貝殻を探し、かがみ込んでは拾い上げる。
アキレス:
母さん。
テティスは振り向き、アキレスに笑いかける。
テティス:
あなたに新しい首飾りを作ってあげようと思って。
アキレス:
子供の頃から貝殻の首飾りをしたことはないな。
テティスはアキレスの何も着けていない首元を見る。
テティス:
もういらないの?
アキレスは良さそうな貝殻を拾い、テティスに手渡す。
テティス:
まぁ、きれい。
彼女はさらに綺麗な貝殻を探そうと渚を見渡す。
アキレス:
また戦争に呼ばれました。
テティスはかがみ込み、銀色に輝く貝殻を拾い上げる。
アキレス:
聞いていますか?
テティス:
聞いているわ。また戦争ね。
アキレス:
パトロクロスは行きたがっています。
テティス:
パトロクロスには初めての戦争ね。
テティスは掌の上の貝殻をつくづくと眺めている。やがて彼女は立ち上がり、息子に目を向ける。
テティス:
あなたがここに、私やあなたの家族とともに留まれば、長生きして平和な人生を
送れるわ。あなたは結婚して子供を作り、その子供がまた子供を作る。彼らは皆あなたを愛し、あなたが死んだ後もあなたを忘れない。
けれど、あなたの子供が死に、その子供もまた死んだら、あなたの名前を覚えている者はいなくなる。
テティスは手を伸ばして息子の頬に触れる。彼女の瞳は澄み切り、声はしっかりしている。彼女は躊躇いも疑いもなく言葉を続ける。
テティス:
もしトロイへ行けば、あなたは比類のない栄光を手にするでしょう。人々は千年の間、あなたの勝利を語り継ぎ、あなたの名は永遠に残る。
アキレスは燃えるような目で彼女を見つめる。それこそが彼が生まれた日から欲していた言葉だった。彼の母親が再び口を開くまで少し間が開く。彼女は自らを傷つける言葉を継ぐ。
テティス:
けれど、あなたがトロイへ行けば、二度とここには戻らない。あなたはトロイで死ぬでしょう。
アキレス:
あなたにはわかるのですね?母さん。
テティス:
わかるのよ。
アキレスは海へ目を向ける。テティスは目に涙を浮かべているが、健気に微笑む。
テティス:
あなたの父親も戦争から戻ってくると、いつもそうやって海を眺めていた。あの人と一緒にいられた時間も長くはなかった。
アキレスは遠くに白い帆を見る。彼は果てしなく広がる暗い水面に浮かぶただ一つの白い点を凝視している。

−エーゲ海
未だかつて誰も目にしたことのない大艦隊が海を行く。千隻の船が東を目指し、その竜骨で波を掻き立てながら、海に群がっている。
白い帆は多様な民族と彼らの同盟を象徴する印や紋章に彩られている。
一隻の船が編隊を外れて静かに航行している。艦隊中から孤立したその船の帆は黒一色である。

−アキレスの船
アキレスは東を見つめながら船の舳先に立っている。
パトロクロスは真新しい貝殻の首飾りを着けて、アキレスの側にいる。

9
−トロイ
ヘクトル、パリス、ヘレン、そして随行の兵士たちがトロイの城門をくぐる。
街は壮大で、磨き上げられた壁、青々とした庭、そびえ立つ神像が見る者を驚嘆させる。
ゼウス、アポロ、アフロディテ、ポセイドンの80フィートもある像が広場の四隅に立っている。
王子たちの帰還はトロイの祝日となる。数千の見物人が道に並び、歓声を上げる。屋根の上から花びらを振りまく者もいる。
パリスはヘレンの手を握り、様々な場所を指し示して囁きかけているが、彼女は緊張している。
群集の中には彼女の存在に戸惑い、指差して噂し合う者もいる。
ヘレンは囁きや視線を気にしていないように装い、頭を高く上げている。ヘクトルは彼女に注目している。彼女はまるで女王のように振舞っているが、その白い手はパリスの手を強く握り締めて
いる。

−トロイの宮殿
宮殿へ続く長い階段の下に、馬の鬣を飾った兜を着け、美しい白馬に跨った4人のアポロ親衛隊の兵士が控えている。
ヘクトルは、透き通るような肌と黒い瞳を持つ彼の妻、アンドロマケと再会する。彼は彼女をその胸に抱き、彼女は目を閉じ、ふたりは長い間そのまま立っている。
その側には乳母が、夫妻の息子、10ヶ月になるスカマンドリウスを抱いて立っている。
アンドロマケは赤ん坊を乳母から受け取る。ヘクトルは息子のきょときょとする目に見入り、その指を彼の手に握らせる。
ヘクトル:
大した握力だ。
アンドロマケ:
この子は父親そっくり。お豆が嫌いなところまで。
夫妻が会話している間に、パリスは父親であるプリアモス王と抱擁を交わす。プリアモス王は王者らしい威厳を備えた、豊かな白髪と鋭い青い目の持ち主である。彼はパリスを熱愛している。
パリス:
父上、ヘレンです。
ヘレンは敬意を払い、頭を下げる。
プリアモス:
ヘレン?スパルタのヘレン?
ヘレンとプリアモスは二人揃ってパリスに目を向ける。
パリス:
トロイのヘレンです。
プリアモスがこの突然の出来事に心を乱されたとしても、彼はそれを顔に表しはしなかった。彼は前へ出て元王妃に顔を寄せ、その両頬にキスする。ヘレンには予期せぬ出来事で、彼女はうろたえ、同時に喜んだ。
プリアモス:
きみの美しさは風の便りに聞いていたが、今回ばかりは噂は正しかった。ようこそ。
ヘレン:
ご親切に感謝します。
プリアモス:
おいで。疲れているだろう?
彼は一行を導いて階段を上り、宮殿の中へ入る。

−宮殿の中−玄関の広間
白い巫女の装束に身を包んだ貴族的な物腰の17歳の少女、ブリセイスが王家の一同のもとへ歩み寄る。パリスは彼女を見て微笑む。
パリス:
ブリセイス!愛する従妹。月が替わる毎に美しくなるね。
ブリセイスは頬を染め、膝を折ってお辞儀をする。ヘクトルが腕を広げて彼女に近づく。
ブリセイスの顔が輝く。彼女は年長の王子に抱きつく。ヘクトルは彼女の頭の天辺にキスする。
ヘクトル:
私に会いたかったかい?可愛い白鳥さん。
ブリセイスは頷く。ヘクトルは彼女の衣装の袖をつまんで言う。
ヘクトル:
アポロの巫女になったのか?
プリアモス:
この子が白装束を選んだ時には、トロイ中の若者が途方に暮れたよ。
ブリセイスの頬は真っ赤に染まる。
ブリセイス:
伯父上。
プリアモスは笑い、彼女の額にキスする。彼は召使が差し出す銀の盆から3つの杯を取り上げ、一つは自分に、ヘクトルとパリスに一つずつ手渡す。
プリアモス:
おまえたちが無事に戻ったことを神に感謝する。
王と王子たちはワインを数滴こぼす。
プリアモス、ヘクトル、パリス:
神々のために!
彼らは杯を干す。

10
−プリアモスの会議の広間−夜
大きな広間の最奥、市街を望む開けたアーチ窓の前にプリアモスが立っている。ヘクトルは50人掛けの大きなテーブルの前に座っている。
プリアモス:
これも神のご意志だ。全ては神々の手の中に。
けれど、パリスが彼女を連れてくるのを、おまえが許したとは驚きだ。
ヘクトル:
もし私がパリスに、彼女のためにメネラウスと闘うことを許していたら、父上は娘を歓迎する代りに息子の死体を火葬することになったでしょう。
プリアモスはこの言葉を聞いて目を閉じる。
プリアモス:
メネラウスに和平の使者を送らねば。
ヘクトル:
メネラウスという男をご存知でしょう。使者は門前で串刺しにされます。
プリアモス:
私にどうしろと?
ヘクトル:
彼女を船に乗せて帰しましょう。
プリアモスは彼の国土を見下ろしながら、しばし考える。
プリアモス:
女たちはいつでもパリスに熱を上げ、パリスもそれに応えてきた。
だが、今回は違う。彼の中で何かが変った。彼女をメネラウスの元へ送り返せば、パリスは追って行くだろう。
ヘクトルは立ち上がり、父のもとへ行く。彼は外を指し示す。トロイの市街は活気に満ち、人々は日々の営みに勤しんでいる。
ヘクトル:
これは私の国です。彼らは私の国民です。弟が戦利品を手に入れるために彼らが犠牲になるのは見たくありません。
スパルタ人が彼女を、ただ追ってくるわけではありません。今頃メネラウスはアガメムノンのもとへ行っているでしょうし、アガメムノンは長年、我々を滅ぼそうとしてきました。一度でも我々を排除すれば、制海権を握れるのですから。
プリアモス:
敵は何世紀にも渡って我々を攻撃してきたが、城壁は未だに健在だ。
ヘクトル:
父上。この戦争には勝てません。
プリアモス:
アポロが見守って下さっている。アガメムノンとて神々の敵ではない。
ヘクトル:
太陽神はどれだけの軍隊を持っていらっしゃるのでしょう?
プリアモス:
神に無礼なことを言うな。
ヘクトルはさらに論争しようと口を開きかけるが、言葉を飲み込む。
プリアモス:
おまえがまだ幼い頃、猩紅熱で倒れたことがあった。
ヘクトルはもどかしげに頷く。その話は以前に聞いている。
プリアモス:
おまえの小さな手はとても熱かった。治療師は今夜を越せないだろうと言った。
私はアポロ神殿へ行き、太陽が昇るまで神に祈りを捧げた。宮殿へ戻る道のりは一生のうちで最も長いものだったよ。けれど、おまえの母親の部屋へ行くと、おまえは母親の腕の中で眠っていた。熱はすっかり下がっていた。
その日、私は神に一生を捧げると誓った。その誓いを破るまい。
ヘクトルは深く息をつく。彼は父王が心を決めていることを知る。
プリアモス:
私は30年の間、平和のために努めてきた。30年だ。
パリスは時に愚かだ。それはわかっている。だが、あの子を死なせずに済むなら、私は千の戦でも闘うつもりだ。
ヘクトルは市街の向こうの海に目を向ける。水面には今は何もない。だが、彼は何が来るかを知っている。
ヘクトル:
お許し下さい、父上。父上は一つの戦も闘うことはありません。
彼は頭を下げ、広大な広間に老王を一人残して立ち去る。

11
−パリスの寝室−夜
パリスは部屋の中を歩き回っている。ヘレンはアーチ窓に佇み、暗い海を見ている。風が彼女の髪を吹き抜けてゆく。
ヘレン:
彼らがやってくるわ。風が彼らを運んでくる。
パリスは足を止め、彼女を見つめる。
パリス:
僕らが姿を消したらどうだろう?今夜これから厩舎へ行って馬を2頭連れてここを出るんだ。東へ向かって馬を走らせ続けて...
ヘレン:
そして、どこへ行くの?
パリス:
ここから遠いところへ。僕が鹿や兎を狩るから食糧には困らないよ。
ヘレン:
ここはあなたの家よ。
パリス:
きみは僕のために家を捨てた。
ヘレン:
スパルタは私の家じゃなかった。16歳でメネラウスに嫁ぐために送り込まれたけれど、あそこが私の家だったことはないわ。
パリスは思いつきの計画に興奮し、ほとんど聞いていない。
パリス:
僕らは大地に生きよう。宮殿も召使もいらない。僕らにはもうそんなものは必要ない。
ヘレン:
ご家族はどうするの?
パリス:
僕らは家族を守ろうとしているんだよ!僕らがここにいないなら戦う必要はないもの。
ヘレン:
メネラウスは諦めないわ。世界の果てまで追ってくる。
パリス:
彼はこの国を知らない。僕は知っている。1日のうちに姿をくらませるよ。
ヘレンは立ち上がり、彼の唇にキスする。
ヘレン:
あなたはメネラウスを知らない。彼の兄のことも知らない。彼らは私たちを探すためにトロイ中の家を焼き尽くすわ。私たちが姿を消したなんて信じない。信じたとして
も報復のためにトロイ中に火をつける。
パリスは彼女の言葉を噛みしめ、やがて頷く。
パリス:
それなら僕は彼に見つかるようにしてやる。まっすぐ彼に歩み寄り、きみは僕のものだとはっきり言ってやる。
ヘレンはその腕に彼を包み込み、彼の肩に顎を置く。
ヘレン:
あなたは若いのね、愛しい人。
パリス:
僕らは同い年じゃないか!
ヘレン:
私が昔そうだった頃より若いわ。

−トロイの夜明け
太陽がトロイ全土の上に昇る。

−市街中心の広場
数多くの嘆願者たちがポセイドン像の前に跪き、花束や小さな彫刻、山羊革の袋に満たしたワインなどの供物を横たえている。

−兵士たち
海岸に連なる要塞は戦争に備えている。兵士たちは松明を運び、大きな石甕を満たした燃料に火を点ける。他の兵士たちは敵の上陸を妨げる柵を作るため、材木を砂に深く打ち込んでいる。
皆、口数は少なく、張りつめた様子である。全てが非常事態の雰囲気に晒されている。

−アポロ神殿
海岸を見下ろして建っている。

−神殿の内部
二人の神官が、供物の焼いた豚から脂肪の筋を切り取り、祈祷しながら神像に捧げる儀式を執り行っている。
巫女であるブリセイスは神官の後ろに立ち、儀式用のワインを石の床に注いでいる。

−商人たち
市場では商人たちが店を開く準備をしている。ワイン、オリーブ油、なつめやし、イチジク、香辛料を並べている。
鍛冶屋は青銅の剣を鍛えている。

−羊飼い
羊の群れを見張っている。
−農夫とその息子
頚木に繋いだ雄牛を引いて畑を耕している。

−4人の漁師
小さな船に乗り、海岸から1マイル沖で海中に網を広げる。

−監視塔
2人の歩哨がトロイの城壁の端にある監視塔に立ち、椀から熱いスープを啜っている。塔の上にはトロイ王国の馬の紋章を飾った巨大な旗がはためいている。
歩哨の一人がスープを吹き出す。彼は目を見開いて瞬きし、目を細めて遠くを見、硬直する。もう一人の歩哨も立ち上がって相棒の側へ行き、彼の視線を追う。二人とも口をあんぐり開けて立ち
すくむ。

−ギリシア艦隊
水平線いっぱいに、真っ直ぐトロイを目指してくる。

−歩哨
歩哨の一人が監視塔の横木に吊るされた鐘を叩き始める。もう一人の歩哨は依然として大艦隊から目を離せない。トロイ人が初めて目にする大軍である。

−歩哨たち
他の監視塔も一斉に鐘を打ち鳴らす。

−ヘクトルの部屋
ヘクトルはベッドの上に妻のアンドロマケと共に座り、息子を見守っている。赤ん坊は彼がスパルタからの帰途に彫った木彫りのライオンで遊んでいる。
街の鐘が鳴り出す。
ヘクトルは妻に目を向け、城壁の向こうのエーゲ海を見渡すバルコニーへ向かう。
彼は敵の大軍が押し寄せてくるのを見る。彼はしばらくの間、大艦隊を見つめ、宮殿の中へ急ぎ引き返す。

−プリアモスの会議の広間
プリアモスは広大な広間で、ゼウスの立派な神像の前に跪いている。
雷を司る神は石の顔に憤怒の表情を浮かべ、手に雷電を握り、老いた王を見下ろしている。鐘の音を聞いたプリアモスは深く息をつき、ゼウスの目を見上げる。神々の父が彼を見返す。

−トロイ市街
街は恐慌をきたしている。商人たちは大急ぎで店をたたみ、母親たちは子供を探して走り回り、若者たちは武器庫へ急ぐ。

−郊外
人々が安全な城壁内を目指して押し寄せる。

−農夫とその息子
大慌てで食糧を荷車に積み込む。

−羊飼い
急いで羊の群れを集め、城門へ向かう。彼は、我先に聖域へと急ぐ数百の人々と合流する。

−漁師
海岸へ向かって死に物狂いで船を漕ぐ。

−エーゲ海
大艦隊が着々と海岸へ近づきつつある。一隻の船が他の船を遥かに引き離して進んでくる。
黒い帆を掲げた船である。

−アキレスの船
アキレスの船の漕ぎ手たちは互いに激励し合い、航路の安全を確認している。
アキレスは舳先に立ち、トロイの海岸を入念に観察している。パトロクロスが側に立っている。
ミュルミドン人の副官エウドロスがアキレスに近づいてくる。
エウドロス:
他の船を待ったほうがいいのでは?
アキレスは他の船との距離を測る。最も近い船でも4分の1マイルほど後ろにいる。漕ぎ手以外のミュルミドン人(アキレスと同郷の戦友)たちは戦支度を始めている。
アキレス:
やつらは俺たちを戦わせるために連れてきたんじゃないのか?
エウドロス:
そのとおりです、ご主人様。けれど、アガメムノンは...
アキレスは副官を、彼が頭を下げるまで見つめる。
アキレス:
おまえは俺のために戦うのか?アガメムノンのためか?
エウドロス:
あなたのためです。
アキレス:
では、俺のために戦え。
アガメムノンの手下にはアガメムノンのために戦わせておけ。

−アガメムノンの船
アガメムノンは、ネストル、メネラウスと共に舳先に立っている。
メネラウス:
あれは誰の船だ?
ネストルは太陽の光から目を庇いながら凝視する。
ネストル:
黒い帆...アキレスです。
彼らはアキレスの船がトロイの海岸へ近づくのを見守る。
アガメムノン:
なんという馬鹿だ。50人でトロイの海岸を奪うつもりか?

−トロイの海岸の要塞
トロイの射手兵は弓矢の最後の点検をしている。

−トロイの武器庫
テクトンは武器庫の扉の前で馬を下り、中へ駆け込む。

−トロイの武器庫の中
洞窟に作られた武器庫には様々な武器が溢れている。槍、剣、鎧、楯の棚がびっしりと並んでいる。
ヘクトルは、数百人の男性市民が武器庫になだれ込み、兵士から武器を配給されるのを見守っている。どの顔も恐れと興奮、決意の表情を見せている。
テクトンは王子に近づき、頭を下げる。
ヘクトル:
アポロ親衛隊は?
テクトン:
城門の前で待機しています。
ヘクトル:
よし。
ヘクトルは武器の配給を監督している小隊長のリュサンドロスを掴まえる。
ヘクトル:
軍の準備が整うのはいつだ?
リュサンドロス:
半数はまだ郊外から駆けつける途中です。彼らに武装させ、指揮官を決めて...
ヘクトル:
いつだ?
リュサンドロス:
正午になるかと...
ヘクトル:
急がせろ。
この時初めて王子は戦闘に臨む顔を見せる。これまでとは全く違う、厳しい目と固く引き結んだ口元を。
ヘクトル:
郊外に人が残っていないか見て回れ。全ての家と牧草地を。トロイの国民は皆、城壁の中に連れてくるように。歩けなければ、運んでくるんだ。
リュサンドロスは頭を下げる。ヘクトルはテクトンを従え、迅速に歩く。リュサンドロスと他のトロイ人たちは無言の敬意を持って彼らの王子を見つめる。誰がこの国を統率しているのかは疑いもない。

−アキレスの船
漕ぎ手たちは船を進める。今や全員が武装している。アキレスは武装し、戦闘の準備を整えたパトロクロスに目を向ける。
アキレス:
どこへ行くつもりだ?
パトロクロス:
トロイ人と戦いに。
アキレスは首を振り、彼の槍を取り上げる。
アキレス:
おまえにはまだ早い。
パトロクロス:
早くない。あなたが戦い方を教えてくれたじゃないか。
アキレスは少年の頭の後ろに手を置く。
アキレス:
そう、おまえはいい生徒だ。だが、まだミュルミドンじゃない。
アキレスは二人の周囲にいるミュルミドンたちを指し示す。
アキレス:
ギリシア中で最も勇猛な戦士たちだ。誰もが俺のために血を流してきた。
おまえの心配をしながらトロイ人とは戦えない。船を守れ。
パトロクロスは甲板を見回す。ただひとり武装していないのは年老いた片脚の料理人だけで、彼は槍の手入れをしている。
パトロクロスは腹立たしそうに鎧を脱ぎ捨て、甲板に投げ捨てる。

−トロイの城門
ヘクトルとテクトンを乗せた馬が城門から走り出る。二人は、よく手入れされ鼻息を荒くした馬に跨るアポロ親衛隊の精鋭80人の前で馬を止め、彼らを見渡す。
ヘクトルが堅固な、よく通る声を上げる。
ヘクトル:
私は一つの掟で生きている。簡単な掟だ。神を敬い、妻を愛し、国を守れ。
兵士たちはどよめく。
ヘクトル:
トロイは我らの母だ。母のために戦え!
兵士たちは叫び、槍を突き上げる。ヘクトルは彼らを率いて海岸へ突撃する。

−アキレスの船
アキレスは船の舳先に立ち、トロイの砂浜を仔細に検分する。彼は微笑み、部下たちを振り返る。
アキレス:
ミュルミドン、剣の兄弟たち。俺はどんな大軍よりもおまえたちの側で戦うほうがいい。
ミュルミドンたちは喝采する。アキレスは剣をトロイの海岸に向ける。
アキレス:
あの海岸に待っているものがわかるか?不滅の名声だ。
ミュルミドンたちは剣を掲げ、声を一つにして叫ぶ。
漕ぎ手たちの果敢な最後の一漕ぎで、船はトロイの海岸の砂にその船首を乗り上げた。
アキレスは兜を着け、青銅の留め具を付けたロープを握り、砂の上に飛び降りる。ミュルミドンたちが彼の後に続いて飛び降り、ロープを甲板に投げ上げる。


12
−トロイの海岸の要塞
要塞の後ろにいる射手兵たちはミュルミドンが船から降りるのを見ている。指揮官が片手を上げる。
ギリギリまで引きつけてから
指揮官:今だ!
射手兵たちは一斉に立ち上がり、矢を放つ。

−トロイの海岸
数百本の矢が空を切り裂く。4人のミュルミドンに命中し、彼らは悲鳴を上げながら海へ転落する。
他の矢が固まった砂に突き刺さり、水中に落ちる。
ミュルミドンたちは頭上に楯を掲げて一塊になり、アキレスを見る。アキレスは指で合図をする。
彼らの半数が分かれ、降り注ぐ矢の中を、狼のように吠えながら左へ、要塞へ向かって走り出す。


−アキレスの船
パトロクロスは船の手すりの下で、雨のように降ってくる矢を避けて料理人と一緒に縮こまっている。火のついた矢が帆に次々と命中し、燃え始める。
料理人:帆を降ろすのを手伝ってくれ!
料理人は彼の周りに降り注ぐ矢を無視して、帆に向かって足を引いて行く。パトロクトスは深呼吸して走り出し、料理人を屈み込ませる。二人は協力し合って燃える帆を降ろす。

−トロイの海岸
アキレスは射手兵に向かって走り出し、部下の半数が後を追う。射手兵たちは再び一斉に矢を放ち、さらに何人かのミュルミドンが倒れる。

−アガメムノンの船
アガメムノン、ネストル、メネラオスは船の舳先から戦闘を見ている。彼らの船は未だに半マイル離れた海上にある。
アガメムノン:
やつは死にたいらしい。
他の船から「アキレス!」と叫ぶ声が起こる。兵士たちが剣を楯に打ちつけ、彼らの英雄に声援を送り、物凄い喧騒になる。
アガメムノンはその喧騒を聞いている。彼は歯軋りしながら遠く離れたアキレスを睨みつけている。
ネストルはアガメムノンが辛うじて怒りを押し隠しているのに気づく。彼は他の誰の耳にも入らないよう、ごく小さな声で話す。
ネストル:
彼には戦わせておきましょう。勝利はあなたのものです。
アガメムノン:
やつを戦わせれば戦わせるほど兵士たちは誰が王かを忘れるようだ。

−トロイの平野
ヘクトルと部下たちが砂丘を目指し、凄まじい速さで馬を走らせてくる。

−トロイの海岸
アキレスは楯に3本の矢が刺さったまま砂の上を走っている。彼の周囲の空気を切り裂いて矢が飛び交う。生きてアキレスと共に走っている者はいない。
彼は要塞に向かって跳躍する。その足が地面に着く前に剣を閃かせ、射手兵たちは次々に倒れる。
間もなくミュルミドンたちがアキレスに追いつき、射手兵を攻撃する。あっという間に射手兵は皆殺しにされる。
アキレスは神殿を振り返り、次の標的に定め、頷く。
エウドロスが息切れして喘いでいる。アキレスは面白そうにそれを眺めて、声をかける。
アキレス:
友よ、息をしろ。
エウドロスは2回深呼吸し、アキレスは神殿目がけて駆け出す。ミュルミドンたちが後に続く。

−黄金の神殿
神殿の射手兵たちが一斉に矢を放つ。2,3ヤード四方にいたミュルミドンたちが倒れる。
負傷した数人も命のある限り前進し続ける。

−アイアスの船
アイアスの船は海岸から100ヤードの距離にある。伝説のアイアス−傷だらけの顔と身体、動物的な筋肉、剃り上げた頭の大男−は舳先に立ち、アキレスをじっと見ている。
アイアス:
あいつを見ろ!栄光を独り占めするつもりだ。
アイアスは漕ぎ手たちのところへ行き、一人の漕ぎ手を抱え上げて放り出す。その場に座って自ら櫓を握り、逞しい腕に血管を浮き出させながら、とり憑かれたように漕ぎ始める。
アイアス:
漕げ!もっとしっかり漕がないか!味方が死にかけているぞ!
漕ぎ手たちは力を振り絞り、船は海岸を目指し、波を切り裂いて進む。

−トロイの海岸の砂丘
ヘクトルとアポロ親衛隊は砂丘の頂で馬を止める。ヘクトルはアイアスの船が海岸に乗り上げてくるのを見る。他にも数百隻の船がすぐ近くまで迫っている。

−海岸の防衛線
射手兵はアイアスの船に矢の雨を降らせる。火のついた矢が船体に刺さり、燃え始める。

−トロイの海岸の砂丘
テクトン:
海岸は守りきれません。
ヘクトルはアキレスとミュルミドンが目指す場所を見る。
ヘクトル:
彼らは神殿を奪おうとしている。
テクトン:
アポロの神殿で血を流す不信心者はいないでしょう。
ヘクトルは不安を募らせ、アキレスが矢を避けるのを見ている。彼は振り返り、アイアスの船が上陸した地点を指し示す。
ヘクトル:
射手兵に援軍が必要だ。できる限り多くの船を燃やせ。だが、命は捨てるな。
射手兵たちを城塞へ連れて帰るのだ。
士官は頭を下げ、60人の部下を率いて要塞へ向かう。
ヘクトル:
ついてこい。
彼は神殿へ馬を走らせる。テクトンと部下たちが後を追う。

−アポロ神殿
今や楯にびっしりと矢が刺さったアキレスが、手近にいる兵士に槍を投げつける。槍は兵士の鎧のすぐ上に当たり、彼の喉を引き裂く。
近くにいた射手兵たちは弓を投げ捨て、背後に置いてある槍を取り上げる。
だが、アキレスはすでに彼らに迫り、無慈悲な正確さで彼らを斬り倒していく。アキレスの剣が空中に閃く度に、次々にトロイ兵が倒れる。彼はトロイ兵をなぎ倒し続け、その顔は彼らの血に
まみれていく。
ミュルミドンたちも彼らの指揮官の側で戦っている。トロイの射手兵も白兵戦ではミュルミドンの敵ではない。まもなく神殿一帯はギリシア人の手に落ちる。

−アイアスの船
アイアスと部下たちは矢の雨が木と肉を引き裂く中を船から降りてくる。アイアスは巨大な戦斧と通常の倍はある大きさの楯を手にしている。彼は砂浜に達するやいなや、部下を待たずに雄叫びを
上げながら砂丘の射手兵に向かって突進する。

13
−アポロ神殿
アキレスはあれだけの虐殺の後でも息も乱さず、兜をとり、神殿の壁に立てかける。まだ息のあるトロイ兵がいればとどめを刺そうと、生き残ったミュルミドンたちが辺りを見回している。
エウドロスがアキレスのもとへ飛んでくる。
エウドロス:
神殿は安全です。
アキレス:
太陽神はトロイの庇護者、我々の敵だ。目についた財宝は残らず奪ってやれ。
ミュルミドンは喝采し、神殿へなだれ込む。
エウドロス:
申し上げてもよろしいでしょうか?ご主人様。
アキレス:
話せ。
エウドロスは頭上の太陽を指し示す。
エウドロス:
アポロは全てお見通しです。怒らせることは賢明ではないかと。
アキレスは頷き、神殿の前に据えられたアポロ像の前へ歩いていく。
エウドロスは、アキレスがアポロ像に登り、その首を剣の一振りで刎ね飛ばすのを見て震え上がる。


−トロイの海岸
ヘクトルとテクトンは馬を止める。
テクトン:
畏れ多くもアポロに手をかけるとは。
ヘクトルは馬に拍車をかけ、侵入者に向かって走らせる。20人の部下が後を追う。
別の60人の親衛隊はアイアスが上陸した場所へ向かう。

−アポロ神殿
アキレスは太陽が彼の冒涜に天罰を下すのを待ち受けるように、じっと空を見ている。何も起こらない。
彼は蹄の音を聞きつけて振り返り、ヘクトルと部下たちを200ヤード先に見つける。
アキレス:
神殿に入って皆を集めろ。
エウドロスは急いで同胞のもとへ行こうとする。
アキレス:
エウドロス!ちょっと待て。
ミュルミドンの隊長は立ち止まる。アキレスは槍を持ち上げ、距離を測り、投げる。
アキレスから100ヤード離れた地点で槍の刃先はその的を見い出した。テクトンの鎧である。
テクトンは馬から転げ落ち、地面に串刺しにされる。彼は自らの運命を理解できぬまま、槍の柄を掴んでいる。
ヘクトルは馬を止め、倒れている隊長を凝視する。彼はすでに死んでいる。ヘクトルは振り返ってアキレスを見る。
エウドロスの目は大きく見開かれる。この世の中に、これほど遠くへ、これほど正確に槍を投げられる人間は他にいない。
アキレス:
行っていいぞ。
エウドロスは神殿に駆け込む。
ヘクトルは馬の脇腹を蹴り、アキレスに向かって駆け出す。部下たちは叫び声を上げながら、彼の後を追う。アキレスは待っている。ヘクトルは槍を持ち上げ、50フィートに迫った地点で投げる。
槍が届くギリギリの瞬間に、アキレスは怠惰ともいえる動作で頭を片側に傾ける。槍は半秒前までアキレスの頭があった空間を切り裂く。
アキレスは笑みを浮かべる。
ヘクトルは剣を抜いて突進し、部下たちはぴったりと付き従う。アキレスは小馬鹿にするような足取りで神殿の中へ歩き去る。
一続きの高い階段が神殿の中へ伸びている。ヘクトルとトロイ兵は用心深く中へ進む。

−トロイの海岸
アイアスの脚から矢が突き出ているが、彼は気にも留めない。楯を前に構え、トロイ兵の隊列を押し潰しながら前進する。
アキレスはあらゆる戦闘能力とスピードを備えているが、アイアスの力は野獣並みである。その一撃を避けることは不可能だ。彼の戦斧は青銅の楯を、鎧を、兜を真っ二つにする。斧が鎧に打ち込まれる音と共に、鎧の下の人間はこの世のものとも思えない姿になる。
アイアスはトロイ兵を殴り倒し、戦斧を天に向かって掲げる。
アイアス:
俺はアイアス!岩を砕く者、サラミスの後家作りだ!トロイ人ども、俺を見上げて絶望しろ!
アポロ親衛隊がギリシア人との戦闘に加わる。親衛隊は射手兵よりも白兵戦に強い。

−アポロ神殿の中
ヘクトルと部下は神殿の中へ入る。薄暗い明りに目を慣らしながら彼らは慎重に前進する。
全てが静まり返っている。いたるところに略奪された跡がある。
神殿の奥には祭壇の間に通じる階段が伸びている。ヘクトルは階段へ向かう。階段には血が滴り落ちている。ヘクトルは目を上げる。
アキレスが階段の頂上に、切っ先を地面につけた剣の柄に両手を添えて立っている。彼はヘクトルを見下ろす。
神殿の中に鬨の声が爆発する。隠れていたミュルミドンたちが一斉にトロイ兵に襲いかかる。
ヘクトルは明らかな標的である。2人のミュルミドンが槍を構え、彼に突撃する。
アキレスがほとんど神格化された戦闘の天才だとすれば、ヘクトルは全く異なっていて、人並みの素質の彼は、彼自身の経験と果てしない努力、強靭な知性によって非凡な戦士となったのだ。
ミュルミドンの突撃を彼は待ち受ける。ギリギリのところで彼は剣を振るい、槍の刃を柄から刎ね飛ばす。ミュルミドンは首なしの槍を凝視する。
ヘクトルは反撃のチャンスを与えない。剣を素早く閃かせ、ミュルミドンは2人とも神殿の床に倒れる。
アキレスは階段の上から眺めている。ヘクトルは階段を駆け上がる。アキレスは祭壇の間へ姿を消す。
別のミュルミドンがヘクトルの後を追って階段を上がろうとする。ヘクトルは向き直り、彼の胸当てを蹴る。ミュルミドンは転げ落ちる。ヘクトルは階段を上り続ける。

−トロイの海岸
ギリシアの船が次々と上陸するのを見て、アポロ親衛隊の士官はこれ以上海岸の防衛線を守ることはできないと判断する。
士官:
城塞へ撤退!城塞へ!
トロイ兵は撤退を始める。射手兵たちはそれでもなお矢を放ち続ける。騎馬兵は彼らを無理やり馬に引きずり上げ、逃走する。

−祭壇の間
ヘクトルは2人の神官の死体を見つける。彼らは喉を斬られ、四肢を広げて石の床に横たわっている。
アキレスは祭壇の上で半ば陰に隠れている。血まみれの恐ろしげな形相で、剣からは血を滴らせている。
アキレス:
俺の後を一人で追ってくるとは、よほどの勇者か愚か者か。ヘクトルだな?
ヘクトルは一瞬アキレスを見つめ、神官の遺体に跪く。
アキレス:
トロイの王子に二人きりで謁見賜るとは光栄だ。俺が誰だか知っているか?
ヘクトル:
武器も持たない神官を。
ヘクトルは遺体の目を閉じさせる。アキレスは祭壇から飛び降り、遺体を眺める。
アキレス:
俺は殺していない。老人の喉を切り裂いても名誉は得られない。
ヘクトル:
名誉だと?名誉のために戦うのは子供と愚か者だ。私は国のために戦っている。
ヘクトルは突進する。アキレスは彼の手の届かない距離を保ったまま踊るような足取りで後退する。
彼はリラックスし、遊び半分のようにさえ見える。
ヘクトル:
戦え。
アキレス:
おまえの死を見届ける者がいないのに、なぜ殺さねばならない?トロイの王子。
アキレスはそのまま神殿のアーチから外の明るい陽射しの中へ出る。ヘクトルが続く。

−アポロ神殿
見下ろす海岸には無数のギリシア船が乗り上げてくる。
ヘクトル:
なぜここに来た?
アキレスは侵入してきた艦隊を指し示す。
アキレス:
この戦争は千年の間語り継がれるだろう。
ヘクトル:
千年の間には我々の骨も塵となって消える。
アキレス:
そうだな、王子。だが、我々の名は残る。
血まみれのミュルミドンたちがエウドロスに率いられ、神殿から飛び出してくる。ヘクトルは敵に囲まれ、用心深く後退さる。
エウドロス:
(アキレスに)トロイ兵は全滅です。
アキレス:
もう帰れ、トロイの王子。酒でも飲んで、奥方と愛し合え。明日また戦おう。
ヘクトル:
戦争をまるでゲームのように言うんだな。だが、いったいどれだけの妻たちがトロイの城門の前で帰らぬ夫を待っていると思う?
アキレス:
おまえの弟が慰めるだろうさ。他人の女房と仲良くするのは得意だと聞いているぞ。
ヘクトルはアキレスとミュルミドンたちを少しの間見つめ、歩き去る。
エウドロス:
なぜ行かせたのです?
アキレス:
王子を殺すにはまだ早すぎる。

14
−トロイの海岸
数千のギリシア兵がトロイ兵の撤退を見ている。アポロ親衛隊は多数の射手を後ろに乗せている。ヘクトルは馬に跨り、城塞を目指す。
アキレスは神殿の屋根に上る。ギリシア兵は畏怖と沈黙のうちに注目する。彼は血まみれの剣を太陽に向けて掲げる。
海岸から爆発する歓声が耳をつんざく。数千のギリシア兵が彼の名を歓呼し、声を限りに叫ぶ。
アキレス!と。

−アガメムノンの船
アガメムノンは船の上で海岸へ梯子が下ろされるのを待っている。彼の暗い目は、歓呼の声を聞くにつれ、冷たい憎しみに満ちてくる。

−海岸のギリシア軍陣地
兵士たちは続々と船から降りてくる。すでに上陸した船からは食糧や武器の箱、馬が下ろされ始めている。
アキレスは兜を手に持ち、友軍からの祝福の声の中、海岸を横切ってくる。アイアスが大股に近づく。
アイアス:
アキレス!
アキレスは立ち止まる。その瞬間、辺りの空気が緊張に高まる。誰もが注目している。
アイアスはアキレスを熱烈に抱擁する。
アイアス:
まるで神のように恐れ知らずだな。
アキレス:
神は不滅だ。何を恐れることがある?
アイアスは笑ってアキレスを放す。
アイアス:
共に戦えて光栄だ。
アキレスは頷き、アイアスの分厚い腕をぐっと掴む。
アキレス:
あんたに後ろを守ってもらえるなら何の心配もいらないな。
アキレスは歩き続け、オデュッセウスが船から降りてくるのを見つける。
アキレス:
もう少し遅かったら戦争は終わっていたぞ。
オデュッセウス:
緒戦は逃しても構わないさ。私は戦を締めくくるために来たんだ。
アキレスは笑って歩き続ける。彼はミュルミドンたちが整えた真新しい宿営地に到着する。
パトロクトス、エウドロス、その他の生き残った部下たちが彼を出迎える。
エウドロス:
お見せしたいものが。
アキレスはエウドロスと笑い顔のミュルミドンたちの後について、停泊した船から20ヤードほど
内陸に作られた大きなテントへ向かう。数人のミュルミドンが最後の留め具を砂に打ち込んでいる。
エウドロスは入口のフラップを上げる。アキレスは彼の副官を一瞬見つめてから中へ入る。

−アキレスのテント
中にはまだ何も敷かれておらず、神殿からの夥しい略奪品が積み上げられている。黄金の聖杯、黒曜石の壺、織物、ワインの入った皮袋等々。
だが、アキレスはそれらの略奪品を見ていなかった。テントの中央の支柱に縛り付けられているのは、白い巫女の装束に身を包んだブリセイスである。
怯えてはいるが平静を保とうとしながら、ブリセイスはアキレスに視線を返した。服は汚れ、髪はもつれ、唇から血を流しながらも彼女は生来の威厳と気丈さをその身に纏い続けていた。彼女を見た瞬間、アキレスの目の中で何かが変った。
エウドロス:
神殿に隠れていたのを部下たちが見つけて...あなたにと。
アキレス:
行っていい。
エウドロスは頭を下げ、出て行く。
アキレスは小さな鋭いナイフをベルトから引き抜く。ブリセイスはその刃を見つめる。
アキレスは彼女の後ろへ回り、縛っているロープを切る。彼女はアキレスを見つめたまま、擦りむけた手首を擦りながら後退さる。アキレスはナイフをしまう。
アキレス:
名前は?
ブリセイスはアキレスを見つめるが、答えない。アキレスはその時初めて自分が血まみれなのに気づく。彼は顔を手で拭う。ブリセイスは逃げ道を探すようにテントの中を見回す。
アキレス:
ここは外より安全だ。俺を信じろ。
ブリセイス:
神官たちを殺したわね。
アキレス:
5つの国で人を殺してきたが、神官を殺したことはない。
ブリセイス:
じゃあ、あなたの部下の仕業ね。太陽神の天罰が下るわよ。
アキレスは青銅の脛当てを外す。
アキレス:
いつのことやら。
ブリセイスはこの罰当たりな暴言に唖然とするが、彼から目を離すことができない。
なぜならアキレスは、他の誰でもないアキレスだから。
ブリセイス:
今はその時じゃない。
アキレスは胸当てを外す。
アキレス:
神官たちは死に、巫女は捕虜になった。神は俺を恐れている。
ブリセイスは苦々しく笑う。
ブリセイス:
恐れている?アポロは太陽を司る神よ。恐れるものはないわ。
アキレスは頷き、暗いテントの中を見渡す。
アキレス:
で、彼はどこに?
ブリセイスは答えられない。アキレスは笑みを浮かべ、彼女は目を逸らす。
アキレスは用意してあった湯と布で身体についた血を拭い始める。
ブリセイス:
ただの人殺しに過ぎないあなたに神のことがわかるものですか。
アキレス:
20歳にもならない小娘に俺の心の内がわかるのか?
神のことなら、おまえが神殿で教わってきた以上に知っているよ。
おまえは王家の出だな?
ブリセイスは答えない。アキレスは再び微笑む。
アキレス:
ずっと男を見下してきたらしい話し方で王族とわかる。名前は?
アポロの巫女にも名前くらいあるだろう?
ブリセイス:
ブリセイス。
アキレス:
俺が怖いか?ブリセイス。
ブリセイスはしばし沈黙する。彼女は恐れと好奇心が混ざり合った表情でアキレスを見る。
ブリセイス:
怖がらないといけない?
(テントの外から)
エウドロス:
ご主人様...
アキレス:
何だ?
エウドロスがテントの中に頭を突き出す。
エウドロス:
アガメムノンが、あなたにお越しになるようにと。
アキレス:
この娘よりやつの顔を見たいわけがないだろう?
エウドロス:
王たちは全員、戦勝祝いに集まっています。
アキレスは立ち上がる。
アキレス:
少し時間をくれ。
エウドロスは引っ込む。アキレスは、なおしばらくの間ブリセイスを見つめる。
アキレス:
怖がらなくていい。おまえは俺を怖くないと言った、ただ一人のトロイ人だから。

15
−アガメムノンのテント
2人の筋骨逞しい守衛兵がアガメムノンのテントの入口に立っている。清潔な服に着替えたアキレスは守衛兵に許可を求めることもせず、無造作に入口のフラップをくぐる。
海岸で最も大きなテントであるアガメムノンの司令所は、幾多の戦争の戦利品で豪勢に飾り立てられている。
何人かの副官が、テントの内と外で様々な用事を忙しくこなしている。
ギリシアの王たちが揃っている。オデュッセウス、アイアス、メネラウス、その他。
アガメムノンは、黄金や真珠の母貝、宝石で飾られた重厚な木彫りの玉座に座っている。
テッサリア王トリオパスがアガメムノンに跪いて言う。
トリオパス:
今日は大勝利でした、王の中の王よ。トロイの海岸がこれほど易々と攻略されるとは誰も思ってもみなかったでしょう。
彼はアガメムノンに、柄が黄金でできた儀式用の短剣を手渡す。
アガメムノン:
美しい贈り物だ、トリオパス。明日はそなたも儂と共にトロイの街を最初に歩こうではないか。
トリオパスは立ち上がり、頭を下げる。アキレスはこの遣り取りを信じてはいないが、じっと見ている。彼がちらっと目を向けると、オデュッセウスは肩をすくめる。
今度はピリアの王ネストルがアガメムノンに跪き、戦士の絵が描かれた壺を差し出す。
ネストル:
私の父ネレウスはキプロスでの勝利を記念してこの壺を作らせました。
より記念すべき勝利を称え、あなたにこれを差し上げます。
アガメムノン:
ありがとう、古き友よ。明日はトロイの庭で晩餐を共にしよう。
ネストルは立ち上がり、頭を下げる。アガメムノンは短剣と壺を、他の豪勢な貢物の山に加える。
王たちは列になってテントを出て行くが、オデュッセウスはアキレスの肩を掴んで他の誰にも
聞こえないよう話しかける。
オデュッセウス:
戦争とは若者が死に、老人が語るもの。わかっているだろう?
政治には目をつぶれ。
オデュッセウスはテントを出て行く。アガメムノンはもったいぶって、待っているアキレスにようやく気づいたふりをする。
アガメムノン:
(副官に)席を外してくれ。
副官たちは出て行く。アキレスとアガメムノンは二人だけになる。アキレスは貢物の山に目をやる。
アキレス:
何か大層な勝ち戦があったようで。
アガメムノン:
あー、おまえは気づかなかったのだな。朝にはプリアモスのものだったトロイの海岸が、午後にはアガメムノンのものになったのだ。
アキレス:
海岸はあなたのもの。だが、俺は砂のためにここに来たわけじゃない。
アガメムノン:
そう、おまえは後世に名を残すために来た。確かに今日は大勝利だった。
だが、勝利はおまえのものではない。王たちがアキレスに跪くことはない。
王たちがアキレスに敬意を払うことはない。
アキレス:
戦いに勝ったのは兵士たちだ。彼らは誰が戦ったのかを知っている。
アガメムノン:
歴史に残るのは王だ。兵士ではない。
明日、我々はトロイの城門を打ち倒す。ギリシア中いたるところに勝利の記念碑を建て、アガメムノンの名を刻む。儂の名は永遠に残る。砂に書いたおまえの名は波に洗われて消えるだろう。
アキレス:
まず勝つことだな。
アキレスは立ち去ろうとする。
アガメムノン:
もう一つ。ペレウスの息子よ。
アキレスは立ち止まる。
アキレス:
俺の父親の名をあなたの口から聞きたくない。
アガメムノン:
最初の戦利品は司令官のものになるのが慣わしだ。おまえの部下たちはアポロ神殿を荒らしたな?
アキレス:
黄金をお求めで?どうぞ、あなたの勇気への贈り物として差し上げますよ。何でもお好きなものを。
アガメムノン:
もう貰った。アファレウス!ヒーモン!
2人の武装した兵士(アファレウス、ヒーモン)がブリセイスをテントの中へ引きずってくる。彼女の顔のアザは殴り倒されたことを明らかに語っている。
アガメムノン:
戦利品だ。今夜、この娘に風呂を使わせて...それから先はどうなるかな?
アキレスは剣を抜く。
アキレス:
おまえたちと争いたくはない、兄弟。だが、彼女を放さなければ、生きて国へは帰れないと思え。
2人の兵士は躊躇いながら剣を抜く。アキレスが優勢である。
アガメムノン:
守衛兵!
2人の守衛兵が剣を抜いて駆け込んでくる。アキレスは取り囲まれ、剣を構える。
ブリセイス:
やめて!
その場の全員が動きを止め、少女を見る。汚れた服にも関らず、彼女の物腰には兵士たちが敬意を払わずにいられない高貴さと威厳がある。
ブリセイス:
今日はあまりにたくさんの人が死んだわ。
彼女は居並ぶ男たちを見回し、最後にアキレスに目を留める。
ブリセイス:
人を殺すことがあなたの唯一の才能なら、それはあなたの呪いよ。けれど、もうこれ以上、私のせいで人が死ぬのは見たくない。
全員が沈黙するが、アガメムノンは笑い出す。
アガメムノン:
勇者アキレスが奴隷女に黙らされるとは。
アキレス:
彼女は奴隷じゃない。
アガメムノン:
今は奴隷だ。
アキレスはきっぱりと無慈悲な目をして言い放つ。
アキレス:
俺の命が尽きる前に、王の中の王よ、おまえの死体を見下ろして笑ってやる。
アキレスは向きを変え、テントから立ち去る。

−海岸の宿営地
ほとんどの船が海岸に繋留されている。数百人の兵士たちは砂の中に長大な塹壕を掘り終えた。
テントと船への攻撃に備えて、槍の柵が据えつけられ、要塞が建設されている。

−トロイの市街−夕暮れ
薄れゆく明りの中でトロイ人たちは包囲戦に備える。歴戦の指揮官は城門の補強作業を監督する。
兵士たちは城壁の上に数千の矢を用意する。

−ゼウス神殿
ゼウス神殿の雷神の像の前に大勢の人々が跪く。高く積まれた薪の上で、死んだトロイ兵を神官たちが火葬に附している。未亡人たちが泣き叫んでいる。

−海岸の宿営地−夜
海岸は数千の松明に照らされている。ギリシア軍はのどかな海岸を堅固な要塞に変えた。

16
−プリアモスの会議の広間
プリアモスは開けたアーチ窓の側に立っている。彼は市街の向こうに、恐るべき数のギリシア軍に占領された海岸を見ている。
ヘクトル、パリス、将軍たち、貴族と神官たちが長いテーブルを囲んでいる。
将軍のひとり、グラウコスがテーブルを拳で叩く。
グラウコス:
やつらが戦いたいなら、戦ってやろうじゃないか。いつでも最高のトロイ兵を最高のギリシア兵にぶつけてやる。
恰幅のいい貴族、ベリオールは首を振って言う。
ベリオール:
最高のギリシア兵は最高のトロイ兵に数で勝っている。2対1だ。
グラウコス:
あなたはいったい何が言いたいんだ?市街を放棄し、ギリシア人に人々を虐殺させ、妻たちを強姦させろと?
ベリオールはパリスを、彼が視線を返すまで見つめる。
ベリオール:
私は外交を提案しているのですよ。ギリシア人が来た理由はただ一つ。
正直になりましょう、皆さん。若者らしい無分別のせいで、まさに今トロイ兵たちが火葬されているのですよ。
パリスはベリオールから目を逸らす。
プリアモス:
グラウコス、そなたは40年来の戦友だ。この戦に勝てるか?
グラウコス:
我々の城壁が突破されたことはありません。射手兵は世界一です。
そして我々にはヘクトルがいる。彼の指揮なら部下たちはタルタロスの亡霊とでも戦うでしょう。我々は勝ちます。
黄金の刺繍で縁取られた白い衣装を身につけた神官長アルケプトレモスが声を張り上げる。
アルケプトレモス:
私は今日、2人の農夫と話しました。彼らは蛇を掴んで飛ぶ鷲を見たと
言いました。これはアポロのお告げです。我々は明日、大勝利を収めるでしょう。トロイが鷲で、ギリシアは...
ヘクトル:
鳥のお告げか!鳥のお告げで戦略を考えろと?
プリアモス:
ヘクトル、敬意を払いなさい。アルケプトレモスが4年間の干ばつを予言した時、我々は深く井戸を掘った。干ばつはやってきたが、我々は
飲み水を確保できた。神官長は神に身を捧げているのだ。
ヘクトル:
私はトロイに身を捧げています。私はいつでも神を敬っています、父上。
けれど、今日、私はアポロ像を穢したギリシア人と戦った。アポロは彼を打ち倒しはしなかった。神は我々のために戦ってはくれません。
パリス:
戦争は必要ない。これは国同士の争いではなく、2人の男の戦いなんだ。もうこれ以上トロイ兵が僕のせいで死ぬのを見たくない。
プリアモス:
パリス...
パリス:
明朝、僕はヘレンへの権利をかけてメネラウスに挑戦する。勝者が彼女を連れて帰る。
敗者は夕刻に焼かれる。
パリスは部屋を出て行く。他の者たちは唖然として黙り、座っている。
グラウコス:
彼にチャンスはあるのか?
皆がヘクトルに目を向け、彼は熟考して答える。
ヘクトル:
明朝、兵を城門の外に配置してほしい。アガメムノンはこの戦争を決闘で終わらせはしないだろう。

−宮殿の庭
プリアモスの美しい庭−前庭には椰子の木が育ち、壁には花をつけた蔦が這う。風の神の竪琴の音が風に乗ってくるようだ。
プリアモスとパリスはアフロディテの像に向かい、ベンチに座っている。父王は布の包みを膝に載せている。
パリス:
父上、ごめんなさい。僕のしたことがどんなに父上を悲しませているか...
プリアモス:
彼女を愛しているのか?
パリスはアフロディテの像を見上げる。
パリス:
父上はこの国を愛する偉大な王です。草の葉も、砂の一粒も、川にある石の一つ一つまで、父上はトロイの全てを愛している。ヘレンを思う僕の気持ちも同じです。
プリアモスは頷き、美の女神をじっと見つめる。
プリアモス:
私はこれまで幾多の戦争を闘ってきた。国土のため、権力のため、栄光のために。
だが、愛のための戦いは他のどんな理由にも勝る。
パリスは無言だが、父王の言葉は彼の肩から重荷を取り去ったようだ。
プリアモス:
だが、私はもう戦わない。
プリアモスはパリスに包みを手渡す。パリスは好奇心にかられ、布を解き始める。やがて中身が姿を現す。見事に鍛えられ、トロイ王家の紋章が刻まれた光り輝く剣である。
パリス:
トロイの剣ですね。
プリアモス:
私の父がこの剣を伝えた。父の前にはその父が、トロイ王国の創始者に遡るまで。
我が民の歴史はこの剣と共に語り継がれている。明日はこれを使いなさい。
パリスは剣を掲げ、月の光に煌かせる。
プリアモス:
その剣にはトロイの精神が込められている。トロイ人の手にある限り、未来はあるのだ。
17
−ヘクトルの私室−夜
ヘクトルはベッドの上で息子をあやすアンドロマケの隣に座っている。彼は疲れきった様子で息子を見つめている。
ヘクトル:
この子は何が起きているかわかっていないな。
アンドロマケ:
ありがたいことだわ。
ヘクトル:
神殿の外でテクトンを殺した男...あんな槍を投げる男は初めてだ。
信じられない距離だった。
アンドロマケが長い沈黙を破る。
アンドロマケ:
ブリセイスは今朝、アポロ神殿にいたのよ。
ヘクトルは彼女を見つめる。
ヘクトル:
本当か?
彼女は嗚咽を飲み込みながら頷き、目を閉じる。ヘクトルは悲しみに満ちた目で、妻の長い髪に触れる。
ヘクトル:
弟に会わねば。
アンドロマケ:
行かないで。
ヘクトル:
彼と話さなければ。
アンドロマケ:
明日のことよ。行かないで。あなたはもう充分戦ったわ。明日は誰かを代わりに行かせて。
ヘクトル:
私が好んで戦っていると思うのか?愛しい人。私はこの子が成長して女の子に追いかけられるのを見たい。
アンドロマケ:
父親が追いかけられたみたいに?
ヘクトル:
この子は父親よりずっとハンサムだよ。
ふたりはしばらく彼らの息子を見つめながら、黙って座っている。
アンドロマケ:
私は7人の兄弟をスパルタとの戦争で失ったわ。あなたは、私が今ではもう失うことに慣れたと思っているのね。
あなたを失いたくない。生きていけないわ。
ヘクトルは彼女を見つめ、引き寄せ、口づけする。ふたりが共有してきた過去の全てがこもった口づけを。アンドロマケはやがて彼を離し、彼は部屋を出て行く。

−宮殿の広間
ヘクトルがパリスの部屋へ向かって歩いていると、蝋燭の灯りに照らされた広間を、黒い外套に身を包んだ何者かが忍び足で歩いていくのを見つける。暗殺者か?
ヘクトル:
待て!
人影は振り返り、それから走り出す。ヘクトルは追う。逃亡者は廊下の端のアーチを通り抜け、庭に飛び込む。

−宮殿の庭
ヘクトルも庭に走る。彼のほうが遥かに速い。彼は獲物を捕らえ、その頭巾を外す。
ヘレンである。
ヘクトル:
ヘレン?
月明りの下でヘクトルは彼女の顔に注目する。この数週間のストレスで美貌は損なわれているが、目の下の隈が、これまでになく強く訴えかける顔にしている。
きまり悪さに当惑しながら、ヘクトルは立ち上がり、ヘレンを助け起こす。
ヘクトル:
いったいどこへ行くつもり...
ヘレンは逃げ出す。ヘクトルはほんの数歩で再び彼女を捉える。
ヘレン:
行かせて。
ヘクトル:
どこへ?
ヘレンはヘクトルの手を振りほどこうとするが、無駄な抵抗である。
ヘレン:
行かせて!
ヘレンは抗い続けながら泣き出す。ヘクトルは彼の胸に彼女を引き寄せる。彼女の涙は本物で、激しい啜り泣きの声はヘクトルの身体に当ってくぐもる。
ヘクトル:
しー。
ヘレン:
火葬を見たわ。死んだ兵士が薪の上で焼かれるのを。みんな私のせいよ。
ヘクトル:
違う。
ヘレン:
私のせいよ。わかっているでしょう。夫を亡くした妻たちも皆、知っている。
あの人たちの泣き叫ぶ声が今でも聞こえる。
ヘレンは深く息をつく。彼女は自制しようと努力する。
ヘレン:
私がここにいるせいで、あの人たちの夫が死んだのよ。
ヘクトルには否定できない。ヘレンは彼の手をほどいて離れる。
ヘレン:
船へ行くわ。
ヘクトル:
だめだ。行ってはいけない。
ヘレン:
メネラウスのもとへ戻るわ。彼は望み通りにする−私を殺すか、奴隷にするか。
どちらでも、今よりはずっといい。
ヘクトル:
そうするにはもう遅すぎる。アガメムノンが弟の結婚生活を気にかけていると 思うのか?これは権力の問題だ。愛じゃない。
ヘレン:
パリスは明日の朝、決闘するのね?
ヘクトル:
そうだ。
ヘレン:
メネラウスは彼を殺すわ。
ヘクトルはその言葉に心を痛め、目を逸らす。
ヘレン:
私にはそれを止められる。
ヘクトル:
彼の決めたことだ。
ヘレン:
だめよ。だめ。私のために誰かを闘わせるなんてできない。私はもうスパルタの王妃じゃないのに。
ヘクトルは頭を下げ、彼女の手にキスする。
ヘクトル:
きみはトロイの王女だ。弟には今夜、きみが必要だ。
ヘレンは信じられない思いでヘクトルを見つめる。彼女はその言葉に励まされ、目は涙に濡れているが、微笑みを浮かべる。彼女は頷き、彼の腕に触れ、宮殿へ引き返す。

18
−海岸の宿営地−夜明け
海岸のいたる所で数千のギリシア兵たちが戦闘の準備を整えている。その膨大な人数にも関わらず、彼らは奇妙なほど静かで、各々の物思いにふけっている。
見たことのない、おそらくこの先再び見ることもない顔。王でも英雄でもない、ごく普通の男たちが戦いに備えている。
跪いて祈りの言葉をもぐもぐと呟く者、矢筒の中の矢を確かめる者、砂の上に座り貝殻を弄ぶ者。

−アキレスのテント
アキレスは脚を組み、掌を上に、両腕を水平に突き出して座っている。彼は剣を掌に載せバランスを取っている。
戦闘服に身を包んだエウドロスとパトロクロスがテントに入ってくる。アキレスは刀身から目を離さない。剣の相当な重さにも関らず、彼の腕は微動だにしない。
エウドロス:
ご主人様?進軍が始まっていますが。
アキレス:
行かせておけ。俺たちは戦わない。
エウドロス:
ですが、部下たちは...
アキレスはエウドロスを振り返り、睨みつける。エウドロスは口ごもる。
エウドロス:
部下たちの準備は整っています。
アキレス:
アガメムノンは昨日、俺の面目を汚した。あの娘に身の安全を約束したのに、やつが盗み取ったんだ。今日はやつにトロイ人と戦わせてやろうじゃないか。
エウドロスとパトロクロスは視線を交わす。エウドロスはアキレスに頭を下げ、テントを出て行く。
パトロクロスはそのまま残る。
アキレス:
俺がまだ幼い頃、父が素手で人を殺すのを見た。
パトロクロスはどう答えていいかわからない。
アキレス:
人間の身体にあれほどの血が流れているとは。
アキレスは剣を投げ上げ、柄を受け止める。その刃を吟味する。
アキレス:
戦う用意はできたか?パトロクロス。
パトロクロス:
できているよ。
アキレスは剣を地面に横たえ、しばらくパトロクロスを見つめ、再び語りかける。
アキレス:
殺す覚悟は?
パトロクロスは躊躇う。
アキレス:
夜になると彼らの顔が見える。俺が殺してきた男たちだ。黄泉の川の向こう岸に立ち、俺を待っている。
パトロクロスは身じろぎもせず立っている。彼は従兄がこんなふうに話すのをこれまで聞いたことがなかった。
アキレス:
彼らと共に歩く夜もある。目覚めた時に彼らの声が耳に残っている。彼らは言うんだ、「ようこそ、兄弟」と。
アキレスは自分の拳をつくづくと眺める。
アキレス:
戦う相手を憎むなよ。俺たちは皆、死ぬべき運命だ。俺たちは皆、母親の腹から泣いて転がり出てくる哀れな生き物なんだよ。
この運命から逃れられるのは神だけだ。
パトロクロス:
誰も憎んでいないよ。
アキレス:
よし。おまえに戦う術は教えてきたが、戦う理由は教えていないな。
パトロクロス:
僕はあなたのために戦う。
アキレス:
俺が死んだ後は誰に従う?
パトロクロスは何と答えていいかわからず、躊躇う。
アキレス:
兵士の多くは顔も知らない王のために戦う。命じられたとおりに戦い、死ねと 言われて死ぬ。
パトロクロス:
それが命令なら従うよ。
アキレス:
俺たちが太陽の下を歩ける時間はそう長くないんだ、パトロクロス。
この世を去り、黄泉の国で亡霊たちと永遠に語り合う時が来る。彼らに愚か者に従って死んだとは言うな。
パトロクロス:
じゃあ、何と言えばいい?
アキレス:
おまえの名を教えてやれ。おまえの人生が価値あるものだったなら、彼らはそれで全てを知るだろう。


19
−トロイの城壁
千人の射手兵が矢筒を携え、広大な城壁の上で、それぞれの定位置に立っている。トロイの市民たちも落ち着いた態度で静かに壁の上に集まっている。
プリアモスは青い天蓋の下の正面観覧席に座っている。ベリオールとアルケプトレモスを始め、有力者たちがその周りを取り囲んでいる。
ヘレンは他の誰からも離れて立っている。彼女に公然と敵意を示す者はいないが、背後では視線と囁きが交わされる。

−戦場
壁の下、城門から広がる広大な平野にはトロイ軍が集結している。彼らの前にはヘクトルとグラウコスが馬に跨っている。
兵士たちは規律正しく、整った軍備で、きっちりと隊列を組んでいる。
パリスが馬に乗ってヘクトルのもとへ来る。ヘクトルは彼の顔をまじまじと見つめる。
ヘクトル:
本当にやるつもりなんだな?
パリス:
僕が始めた戦争だ。
パリスは城壁の上に並ぶ顔の中からヘレンを見つける。
風が強く吹き、ヘレンの外套と髪を乱す。彼女の目には愛と恐れと疲労が見える。パリスは長い間彼女を見つめ、向き直る。
低く不吉な轟音がだんだん近づいてくる。最初にヘクトルが聞きつける。彼は海へ向かう斜面を見渡す。
やがて他の兵士たち、壁の上の市民たちの耳にも音が届く。すべての会話が止む。トロイ人は沈黙のうちに待つ。
轟音は進軍の太鼓の音であることがわかる。

−海岸の砂丘
5万人のギリシア軍兵士が進軍する。太陽の光に反射する5万の青銅の楯、5万の兜と鎧は壮観で、まるで逆流する溶岩の川のように見える。

−トロイの城壁
トロイ兵たちは震えもたじろぎもしないが、顔に浮かぶ表情が不安を表している。ギリシア軍はトロイ軍の倍の兵力である。
市民たちはギリシア軍の輝きから目を覆う。彼らは兵士よりも率直に不安を示す。一人の老女が口に手を当て、低い呻き声を漏らす。

−絶壁
パトロクトス、エウドロスと他のミュルミドンたちが海岸の近くの高い絶壁の上に登る。そこから1マイル先に戦場が見える。

−戦場
ギリシア軍は矢の射程の直前で止まる。王たちの代表、アガメムノン、ネストル、メネラウス、オデュッセウス、アイアスを乗せた馬車が戦場の中央へ進む。
オデュッセウスは肩越しに周囲を見渡し、アイアスに向かって大声で問いかける。
オデュッセウス:
アキレスはどこだ?
アイアスは辺りを見回し、肩をすくめる。

−両軍の中間
ヘクトルとパリスは馬に拍車を当て、ギリシア軍へ向かって駆け出す。兄弟は互いを見ずに言葉を交わす。
ヘクトル:
メネラウスは猛牛だ。おまえに向かって突進してくる。
パリスは頷く。
ヘクトル:
彼はおまえより力が強い。接近して戦おうとするな。おまえの距離を保て。
敏捷さを活かすんだ。
パリスは身を乗り出して唾を吐こうとするが、口が渇ききっている。
ヘクトル:
どうした?
パリスは青ざめた顔でヘクトルを見る。
ヘクトル:
やらなくてもいいんだぞ。
パリスは首を振り、メネラウスへ向かって馬を走らせ続ける。

−トロイの城壁
ヘレンは孤立して戦場を見ている。年老いた、しみの浮かぶ手が彼女の肘をとる。彼女は振り返り、プリアモスと目が合う。
プリアモス:
一緒に座りなさい。
ヘレンは彼の観覧席について行き、隣に座る。ヘレンは人々がふたりを見ていることに気づくが、彼は気づいていない。
プリアモス:
一生の間、私はこの日のために祈ってきた。
ヘレン:
はい、陛下。
プリアモス:
父と呼びなさい、愛しい娘よ。
彼女はこの愛情深い言葉に驚かされ、躊躇いながら返答する。
ヘレン:
お許し下さい、お父様。この...
彼女は膨大なギリシア軍を見渡して言葉に詰まる。
ヘレン:
...この災いをもたらしたことを。
プリアモスは首を振り、悲しげな笑みを浮かべる。
プリアモス:
きみを責めるつもりはない。全ては神の決められたことだ。
パリスと恋に落ちたからといって誰を責められるというのだ?
ヘレンはパリスの姿を目に焼き付けようと戦場に目を向ける。この距離では馬の背にある小さな姿しか見えない。
プリアモスは彼女の手をとる。

20
−戦場
ヘクトルとパリスはギリシアの王たちのもとへ馬を乗りつける。メネラウスは剣の柄を指で叩きながら、パリスを凝視する。パリスは目を合わせられない。
ギリシアの王たちは馬車から降り、トロイの王子たちは馬を下りる。両軍は数百ヤードの距離を置いて整列している。
アガメムノンはトロイ軍を見渡す。
アガメムノン:
高い壁の中に隠れていないとは勇敢なことだ。軽率だが、勇敢だ。
ヘクトル:
あなたがたは招かれざる客だ。船に戻れ。国へ帰れ。
アガメムノン:
我々ははるばるやってきたのだ、ヘクトル王子。
メネラウス:
王子だと?こいつらが王子であるものか。どこの王の息子が人のもてなしを受け、 飲み食いした挙句に、その女房を夜中に盗み出す?
パリス:
彼女があなたのもとを去ったのは太陽が輝いていた時だ。
メネラウスは剣を抜く。その剣で城壁を指す。
メネラウス:
あれはあの上から見ているんだろう?結構。おまえが死ぬところを見せたい からな。
アガメムノンは弟の腕に手を置く。
アガメムノン:
まだだ、弟よ。
アガメムノンはさっと手を振り、ギリシア軍全体を指し示す。
アガメムノン:
周りを見ろ、ヘクトル。儂はギリシア中の戦士をこの国の岸辺に連れてきた。
ネストル:
今ならまだトロイを救えますぞ、若き王子よ。
アガメムノン:
儂の望みは二つだ。おまえが承諾すれば、この国の民はこれ以上死なずに済む。
第一に、ヘレンを弟に返せ。第二に、トロイは儂の支配下に入り、儂が必要とする時はいつでも儂のために戦え。
ヘクトル:
あなたの軍を見て震え上がれと?私が見たのは、一人の男の貪欲な戦いのために連れてこられた5万人の兵士だ。
アガメムノン:
気をつけろ、若造。儂の慈悲にも限界がある。
ヘクトル:
あなたの慈悲の限界ならすでに見ている。言っておくが、トロイの男の一人たりとも他国の支配には服従しない。
アガメムノン:
では、全てのトロイの男たちには死あるのみだ。
パリス:
別の方法がある。
その場の全員がパリスに注目する。
パリス:
(メネラウスに)僕はヘレンを愛している。彼女を諦めることはできない。あなたも同じだろう。だから、我々だけで戦おう。勝者が彼女を連れて帰り、それでお終いにしよう。
アガメムノン:
勇敢な提案だな。だが、それでは不十分だ。
メネラウスはアガメムノンを脇に引き寄せ、他の誰にも聞こえないよう小声で話す。
メネラウス:
あの孔雀野郎を殺させてくれ。
アガメムノン:
儂はおまえの可愛い女房のために来たわけじゃない。目的はトロイだ。
メネラウス:
そして俺は名誉のために来た。やつの呼吸の一つ一つが俺を侮辱しているんだ。
殺させてくれ。やつが塵の中に倒れる時が攻撃の合図だ。俺は復讐を果たし、あんたはこの国を手に入れる。
アガメムノンはこの提案をじっくり考える。やがて頷く。ふたりは他の皆のもとへ戻る。
メネラウス:
おまえの挑戦を受けよう。今夜はおまえの骨に乾杯だ。
21
彼は馬車へ戻り、楯を掴む。ヘクトルはパリスが兜を着けるのを手伝い、静かに話しかける。
ヘクトル:
やつには昔のような体力はないはずだ。剣を無駄振りするよう仕向けろ。疲れさせるんだ。
パリスは頷く。メネラウスのもとへ向かおうとするが、急に振り向き、ヘクトルの腕を掴む。
パリス:
兄さん!
ヘクトルは待つ。パリスは口を開くが、言葉が出てこない。もう一度、口を開き、
パリス:
もし僕が死んだら、ヘレンに...彼女に伝えて...
ヘクトル:
約束する。
パリス:
彼女をひどい目に合わせないようメネラウスに誓わせて...
ヘクトル:
今はお互いの剣のことだけ考えろ。他は何も考えるな。
ヘクトルは一瞬、パリスを固く抱き締め、放す。パリスはメネラウスが待つ戦場の真ん中へ歩いていく。

−パリスの視野
兜の中から外を見るのは困難である。視界は限られ、鼻当てがそれを二分している。
拡大された呼吸の音はあり得ないほど大きく聞こえ、半ば恐慌をきたしている。だが、後戻りはできない。メネラウスは広大な戦場の中央に忍耐強く威嚇するように立ち、ゆっくりと剣を空中に
振り回している。
パリスはヘクトルを振り返る。ヘクトルはパリスを勇気付けるように頷くが、心配そうである。
ヘクトルの背後にはトロイ軍が控える。2万5千人の男たちが沈黙している。
軍隊の後ろにはトロイの城塞が見える。城壁の上の青い天蓋の下では父親が見守り、愛する女性がいる。
パリスはメネラウスに向き直る。メネラウスはパリスに向かって笑う。

−戦場
メネラウスはパリスに突進し、首を肩から刎ね飛ばそうと激しい一撃を加える。パリスは閃く刀身の下を、どうにか掻い潜って避ける。
メネラウスは多少の技巧と大いなる残忍さ、何にもまして圧倒的な力で闘う。パリスは敏捷である。
彼は自分より大きな男に素早い剣の突きで不意打ちするが、メネラウスは彼の楯を猛烈に連打し、闘いを支配する。
パリスは一歩下がり、再び突きを入れるが、メネラウスは脇に避け、剣の柄でパリスの顎を殴り、兜を弾き飛ばす。
パリスは鼻と口から血を流し、倒れる。
ヘクトルは弟を助けられないことに焦燥しながら、彼が勝つよう願うばかりである。
ヘクトル:
(息を殺して)立て。立つんだ。

−ギリシア側
アイアスとオデュッセウスは並んで立ち、血を流している王子を見ている。アイアスはうんざりと、オデュッセウスは面白そうに。
アイアス:
これがトロイの王子だと?サラミスじゃ女だってもっとマシだぞ。
オデュッセウス:
だが、これほど可愛くはないだろう?

−トロイの城壁
ヘレンはとても座っていられず、壁に立ち、彼女の恋人と夫の闘いを見守る。プリアモスが隣に立っている。

−絶壁
パトロクロスとミュルミドンたちが闘いを見ている。
エウドロス:
メネラウスはまだ闘い方を忘れていないな。

−戦場
メネラウスは倒れた王子に一撃を加えるが、パリスは楯で剣を受け、這って逃げる。メネラウスは空を指す。そこにはカラスが輪を描いて飛んでいる。
メネラウス:
あのカラスが見えるか?やつらが王子を味わうのは初めてだろうな。
スパルタ人の計略が働く。パリスはすでに戦意を喪失し、不様に剣を振るう。メネラウスはうまく彼の手首を捉える。メネラウスはにやりと笑い、彼を仕留めようと剣をかざす。
パリスは素早く自由なほうの手を振り、スパルタ人の顎を強打する。メネラウスは呻き、トロイ人を突きのける。彼は折れた歯を吐き出す。彼はもう笑ってはいない。

−オデュッセウスとアイアス
素早く目配せを交わす:やるじゃないか。

−メネラウス
だが、メネラウスは立ち直り、次々と強打を繰り出す。ついに青銅の刃がパリスの太腿に食い込んだ。パリスは脚から血を流しながら、後ろへよろめく。彼は自棄になって剣を振るが、メネラウス
は受け流し、彼の剣をその手から跳ね飛ばす。
パリスは5フィート先に落ちた剣を見つめる。
パリスは逃げ出す。メネラウスは唸りながら後を追う。

−トロイの城壁
人々は、彼らの英雄であるはずの王子が、ギリシア人の攻撃の前から尻尾を巻いて逃げ出したことにショックを受ける。彼らは視線と囁きを交わしながら、プリアモスの反応を物見高く窺う。
プリアモス:
闘え、息子よ。闘うのだ。
ヘレンは戦場を見つめている。彼女の表情は読み取れない。

−戦場
パリスは息を切らし、顔と脚から血を流しながらヘクトルのもとへ走る。彼は兄の前に崩れ落ちる。ヘクトルはパリスを見つめ、7フィート先で足を止めたメネラウスを見る。
メネラウス:
闘え、この臆病者!闘え!
パリスは彼らのどちらを見ることも言葉を発することもできず、兄の横で震えている。
ヘクトルは完全な敗北を悟り、弟の頭に手を置く。
メネラウス:
約束したはずだ。闘え!

−ギリシア側
アガメムノンは御者に合図する。
アガメムノン:
トロイ人は協定を破った。進軍する。
御者は頷く。アガメムノンは馬車に飛び乗り、命令を伝えるために隊列へ向かう。

−戦場
ヘクトルは弟から怒り狂うメネラウスへと視線を移す。
メネラウス:
これのどこが名誉だ!王家の恥さらしめ!
ヘクトルは弟に目を向けるが、パリスは誰も見ていない。彼は喘ぎ、脚から血を流し続けている。ヘクトルはギリシア軍を見渡し、再びパリスに目を戻す。
メネラウス:
闘わなければトロイは滅びるぞ。
ヘクトル:
パリス。
パリスは首を振り、鼻から血が溢れ出す。
パリス:
いやだ。できない。
ヘクトル:
(メネラウスに)闘いは終りだ。
メネラウス:
闘いはまだ終っていない。下がっていろ、ヘクトル王子。
ヘクトルはスパルタ王を、その意図を量りながら見つめる。
メネラウス:
おまえの足元で弟を殺してもいいんだぞ。
ヘクトル:
パリスは私の弟だ。
メネラウスは頭上に剣を振りかざしながら突進する。ヘクトルは素早い動作で剣を抜き、その切っ先をメネラウスの鎧の胸当てに突き通した。メネラウスは自らの勢いで、胸当てが剣の柄に
達するまで前にのめる。
メネラウスは大きく目を見開き、鎧から溢れ出した血を見つめ、目を上げてヘクトルを見る。
ヘクトルは刀身を引き抜き、メネラウスは地面に倒れる。

22
−ギリシア側
アガメムノンは隊列の前で馬車に立ち、弟が倒れるのを見る。しばらくの間、広大な戦場は沈黙に包まれる。
アガメムノンが叫ぶ。言葉にならない怒りの叫びがギリシア軍の隊列からトロイの城壁まで響き渡る。彼はヘクトルを指差す。
ギリシアの全軍が前方へ押し寄せる。集結した狂暴な叫び声は大地を揺るがすに充分なほど強力で、5万人の兵士がヘクトル目がけて突進する。

−戦場
ヘクトルは、ギリシア兵の足と馬の蹄が激しく揺らす大地に立ち、彼らが押し寄せるのを見ている。
ヘクトル:
パリス。
パリスは未だにショック状態から抜け出せないように見える。
ヘクトル:
立て。立つんだ!
ギリシアの歩兵が雪崩をうって近づいてくる。パリスはやっと立ち上がるが、違う方向へ走り出す。
ギリシア軍の方へ。
ヘクトル:
パリス!
自殺行為にも見えたその疾走には別の目的があった。パリスは突進してくるギリシア軍の目前で、地面に落ちたトロイの剣を掴み上げる。
パリスは向きを変え、ヘクトルのもとへ走る。ふたりの王子は馬に跨る。
ギリシア軍はふたりに手が届きそうな距離まで迫る。槍を振り回し、雄叫びを上げ、彼らは皆、トロイの王子を倒す栄誉を手に入れようと競い合う。
目の前にいるギリシア兵が槍を繰り出す。槍はヘクトルの耳をかすめる。彼は馬に拍車を当て、二人の王子は城塞へ向かって駆け出す。

−ギリシア側
オデュッセウスは狼狽しつつ、この追撃を見ている。
オデュッセウス:
壁に近づき過ぎている。

−トロイの城壁
王子たちと追跡者の間に距離が開いたことを確認したグラウコス将軍は、城壁の上に立つ士官に命じる。
グラウコス:
射手兵を!

−絶壁
パトロクロスは振り向いて、ミュルミドンたちの背後の高い岩の上に立っているアキレスを見る。
アキレスがいつから闘いを見ていたのか誰も気づかなかった。
アキレス:
後退しろ、バカ。

−戦場
ギリシア軍は全速力で突撃し続ける。千人のトロイの射手兵が矢をつがえ、弦を引き絞っている。
グラウコス:
今だ!
青銅の先端を持つ千本の矢が空高く放たれ、突進してくるギリシア軍に、スズメバチの致命的な大群のように降り注ぐ。
数百人のギリシア兵が倒れる。トロイの射手兵はさらに矢の大群を放つ。矢は空を切る凄まじい音と共に落下する。その多くがギリシア兵の喉や顔を落下地点と定め、切り裂く。
ギリシア軍は数秒前の無抵抗状態から今や大混乱に陥った。前面にいる兵士は自分たちが標的になっているのに気づき、後退しようとするが、後方の兵士は前進し続ける。この足並みの乱れた
混乱状態の上に、矢は青銅の激しい雨となって落下し続ける。
23
アガメムノンは熱狂した部隊の中央で馬車に立ち、命令を下し続けようとするが、その叫び声は将軍たちの雄叫びにかき消される。
御者が首を矢に貫かれ、倒れる。
アガメムノンは自ら手綱をとり、馬車を操ろうとするが、あまりにも多くの兵士が走り回り、あまりにも多くの死体が散乱する中での操縦は困難を極める。

−トロイの城壁
ヘクトルとパリスは、グラウコスとその部隊が待つ城壁に到達した。ヘクトルはパリスの腕を掴む。
ヘクトル:
城塞の中へ!
彼はパリスの馬をピシャリと叩く。パリスは頭を垂れたまま走り去る。
ヘクトルは部隊へ引き返す。彼は兵士たちに向かい、肺腑を振り絞る声で叫ぶ。
ヘクトル:
ギリシアの総司令官はトロイ人に、彼のために闘うよう求めている。
トロイ軍にはますます好戦的な空気が漲る。
ヘクトル:
アガメムノンのために戦いたい者はいるか?
兵士たち:いない!
ヘクトルは剣を抜き、矢の一斉射撃の混乱の中を退却するギリシア軍に向ける。
ヘクトル:
トロイのために!
兵士たち:
トロイ!
兵士たちは突撃する。馬に跨ったヘクトルが最初にギリシア軍に到達する。彼の剣が届く者は皆、斬り倒される。
トロイ軍の歩兵は、矢の雨に破られたギリシア軍の隊列を攻撃する。トロイ軍は敵の混乱に乗じている。ヘクトルの計画が成功したのだ。

−絶壁
アキレスはじっとしていられない。いらいらと指を動かし、悪態をつき、行ったり来たりを繰り返し、戦闘を見ている。パトロクロスとミュルミドンたちは、そんな彼を見ないようにしている。
アキレス:
兵を戻せ...隊列を作れ...

−戦場
一方、オデュッセウスは部隊を立て直そうと努力する。
オデュッセウス:
セレピウス!おまえの部下たちを隊列に戻せ!
側に立っていたアイアスは、ヘクトルがギリシア兵を斬り倒して進むのを目にする。アイアスはヘクトルのもとへ走る。
2人のトロイ兵がアイアスを阻もうとする。ギリシアの勇者は巨大な戦斧を振るう。刃は兵士の一人の腕をきれいに切り離し、胴体の途中まで食い込む。
もう一人の兵士がアイアスに斬りつけるが、彼は楯でそれを防ぎ、その楯を相手の顔に叩きつける。
トロイ兵の割れた頭蓋骨から血が吹き出す。兵士は2人とも地面に倒れ、絶命する。
ヘクトルはギリシアの歩兵と戦っていて、アイアスの接近に気づかない。アイアスはヘクトルの馬の轡を掴み、強く引く。彼の腕の血管が皮膚の下で盛り上がる。
馬は抵抗するが、アイアスは馬の頭を捻り倒す。ヘクトルは馬と一緒に倒れ、砂埃の中に転がる。
ギリシアの歩兵がヘクトルに突きかかる。
ヘクトルはやっとのことで転がって逃げ、仰向けになると同時に剣を振るい、歩兵の脚を足首で叩き斬る。歩兵は悲鳴を上げて倒れる。
アイアスは馬を離し、戦斧を掲げ、倒れているヘクトル目がけて打ち下ろす。ヘクトルはまさにその瞬間、楯を構えて防ぐ。斧は青銅の楯をほとんど真っ二つに断ち割る。
ヘクトルは二つに割られた楯をまじまじと見つめ、投げ捨て、跳ね起きる。2人の戦士は死闘を繰り広げる千人の兵士に取り囲まれて、互いに睨み合い、ぐるぐると歩き回る。
アイアス:
では、おまえがトロイで最高の戦士というわけだな?
ヘクトルは答えず、野獣のような男の隙を探る。アイアスは斧を振るいながら突進する。ヘクトルは屈んで斧を避け、剣を抜いて突っ込む。だが、アイアスはその巨体にも関らず素早く
横に避け、自分より小さいヘクトルを抱え込み、締め付ける。
ヘクトルの顔に血が上り、その手から剣が落ちる。アイアスはにやりと笑う。
ヘクトルは兜を着けた頭をアイアスの顔面に思い切り打ちつける。アイアスは鼻から血を噴き出し、よろめきながら後退り、斧が地面に落ちる。
ヘクトルは平衡感覚を取り戻そうとしている。アイアスは唸り、王子に向かって突っ込んでくる。
ヘクトルは地面に落ちていた槍を素早く掴み、アイアスが飛び込んでくる、まさにその位置に構える。槍はアイアスの鎧を引き裂き、腹を貫通して背中に突き出る。ヘクトルは槍の柄を
しっかりと握る。アイアスは傷を見下ろす。彼は何にもまして腹を立てている。
アイアスは両手で槍の柄を、身体に食い込んでいるその位置で掴む。堅い木の柄が小枝のようにポキンと二つに折れる。
背中から槍を突き出させたままアイアスは折れた柄でヘクトルの側頭部を強打し、馬の鬣飾りのついた兜を弾き飛ばす。
ヘクトルは目がくらみ、片膝をつく。アイアスは再び彼の首の後ろを強打する。ヘクトルは闇雲にもがく。彼の手が落とした剣の刀身を掠める。
ヘクトルは跳ね起き、アイアスの鎧の下の下腹に剣をめり込ませる。ヘクトルは剣を引き抜く。
二人の男はアイアスの血に濡れた地面を見る。
アイアスは折れた槍の柄で、ヘクトルをバックハンドで殴る。ヘクトルは顎を砕かれ、再び倒れる。
アイアスはヘクトルを捉え、直立したまま吊り上げ、首を絞める。アイアスは大きな血の塊を吐き捨て、血に染まった歯を見せて笑う。
ヘクトルはアイアスを蹴ろうとするが、アイアスの指は彼の喉にますます深くめり込んでいく。
ヘクトルは息を詰まらせ、瞼が震え出す。
しかし、サラミスの王はあまりにも大量の血を失っていた。彼はゆっくりと沈み、膝が地面につく。
同時にヘクトルも膝を落とす。
ついにアイアスは白目をむく。彼はヘクトルの喉に手をかけたまま、覆いかぶさってくる。
ヘクトルは死の締め付けをほどく。彼はアイアスの死体の下から這い出し、立ち上がる。

−絶壁
パトロクロスとミュルミドンたちは信じられない思いでアイアスの死を見ている。アキレスはこれ以上見ていられず、立ち去る。部下たちは誰も彼を見ようとしない。

−戦場
トロイ軍はギリシア軍を敗走させる。すでに2人の王が倒れたギリシア軍は混乱状態に陥っている。
オデュッセウスはアガメムノンの馬車が疾走し、通り過ぎるのを見る。彼は走り寄り、どうにか
馬車に跳び乗る。2人の王は戦闘の騒音に負けまいと互いに叫び合う。
オデュッセウス:
撤退を!
アガメムノンは戦場を、壊滅せんばかりの彼の軍隊を見渡す。
アガメムノン:
儂の軍隊が負けたことはない。
オデュッセウス:
退却しなければ、あなたの軍隊は無くなります。
アガメムノンはこの成り行きに呆然となる。ついにオデュッセウスは彼の声が届く限りの小隊長たちに叫ぶ。
オデュッセウス:
船に戻れ!船に戻れ!
小隊長たちはこの叫びを了解し、部下たちに同じ命令を叫ぶ。
ギリシア軍は撤退する。トロイ軍は勇猛な雄叫びを浴びせながら、敵を追撃する。

−トロイの城壁
人々は喝采する。貴人と有力者たちは兄弟のように抱き合う。

−戦場
ヘクトルは敗走するギリシア軍を追う兵士たちを率いて歩き続ける。数千人のギリシア兵が倒れている。

−海岸の陣地
ギリシア兵は自軍の塹壕まで引き返すが、兵力の大部分が損なわれている。後方部隊の射手兵たちが塹壕に立ち、弓を構え、矢を射る用意をしている。
ヘクトルは、対戦相手が先に犯した誤りと同じ轍を踏むまいと、手を上げ、命令を下す。
ヘクトル:
止まれ!
トロイ軍はギリシア軍の射程範囲のすぐ外側で立ち止まる。小隊長のリュサンドロスがヘクトルの側に来る。
リュサンドロス:
王子、みすみす敵を逃がすのですか?
ヘクトル:
敵の射程範囲に入りかけている。我々の射手兵が彼らに何をしたか見ただろう?
死んだ兵士の遺体を集めさせろ。それが済んだら、ギリシア軍に使いを送れ。
攻撃を心配せずに死者を集めるようにと。
リュサンドロス:
やつらが我々に同じことをしてくれるでしょうか?
ヘクトル:
もちろんしないだろう。だからこそトロイは守るに値する。
ヘクトルは向き直り、城塞に向かって引き返す。

24
−戦場−後刻
数千の遺体が広大な平野を満たす。彼らの青銅の鎧が薄れゆく太陽の光に微かに輝く。生存者が死者を引きずっていく。馬は死体でいっぱいになった馬車を引く。
父親、息子、兄弟、親友たちが別れを告げながら、遺体を清めている。太陽が海に沈む。
ギリシア側でもトロイ側でも火葬のための薪の山が築かれる。遺体が薪の山に横たえられ、親族や友人がその目の上に硬貨を置く。
大勢のサラミス人がアイアスの遺体を見ている。誰もが跪いて、死せる王の手に接吻し、啜り泣きながら去っていく。

−戦場−火葬の積み薪
アガメムノンがメネラウスの遺体の前に立っている。彼は2枚の硬貨をメネラウスの目の上に置き、薪の山を下りる。副官から松明を受け取り、薪に火をつける。
アガメムノン:
ここを去る前に必ずやつらの街を焼いてやるぞ、弟よ。約束する。
空が暗くなっていき、海岸とトロイの城壁の内側で死者たちが焼かれる。

−パリスの寝室
パリスはヘレンに脚の傷口を縫われ、痛みにたじろぐ。彼の顔にはアザができ、目は赤く腫れている。
パリス:
僕を卑怯者だと思っているだろう?
ヘレンは傷を縫うことに集中し、答えない。パリスは針が皮膚に刺さるたびに痛みにたじろぐ。
パリス:
僕は卑怯者だ。
彼が僕を殺すのがわかった。わかったんだ。きみが見ていた、父上も、兄さんも、トロイ中が見ていたのに、構わずに逃げた。恥なんか知ったことじゃなかった。
生きのびるために誇りも名誉も捨てたんだ。
ヘレン:
あなたは偉大な戦士に挑戦した。勇気のいることよ。
パリス:
僕はきみを裏切った。
ヘレンは仕事の出来映えを確認する。黒い縫い目は多少不揃いだが、しっかりしている。
ヘレン:
メネラウスは勇敢だった。彼は戦うために生きていたわ。そして、私はそんな彼を、嫁いだ日から彼が死ぬまで憎んでいた。
ヘレンは、パリスからほんのわずかなところまで唇を近づける。
ヘレン:
私が欲しいのは英雄じゃないわ、愛しい人。私が欲しいのは一緒に年老いていける人よ。
ヘレンはパリスに申し分のない優しさを込めて口づけする。
ドアがノックされる。ヘレンは目を向ける。再びノックの音がする。
ヘレン:
どうぞ。
ヘクトルが部屋に入ってくる。彼はパリスの脚を検分する。
ヘクトル:
(ヘレンに)きれいな縫い目だ。
(パリスに)有能な妻を持ったな。
おまえが生きていることを神に感謝する、弟よ。
パリス:
兄さんが誇りに思えるようになりたかったのに。
ヘクトルは弟の肩をぐっと掴む。
ヘクトル:
なれるとも。

−海岸の宿営地
数多くの焚火が海岸に燃えている。数千人の疲れきった兵士たちは、数十人ずつ焚火の前で炎に見入っている。

−アガメムノンのテント
ネストルはトロイの地図が広げられたテーブルの前に座っている。オデュッセウスは2本の柱の間に吊られたハンモックに横になり、ときどき種を吐き出しながらオリーブを食べている。
アガメムノンは敷物の上をいらいらと歩き回っている。彼が普段漂わせている権威は影を潜め、代わりに動揺が見える。
アガメムノン:
トロイ中が儂を笑っておる。老いぼれプリアモスと取り巻き連中が勝利に 酔っているのだ。やつらは、儂が夜明けの最初の光と共にこの海岸から
逃げ出すと思っている。
オデュッセウス:
そうすべきかもしれません。
アガメムノンはオデュッセウスに向き直り、睨みつける。
アガメムノン:
鞭打たれた犬のようにか?
オデュッセウス:
人々は我々がメネラウスの妻のためにここに来たと思っている。彼にはもう妻は必要ない。
アガメムノン:
砂がまだ弟の血に濡れているというのに侮辱するのか?
オデュッセウス:
死者を死んだというのは侮辱ではないでしょう。
ネストル:
もし我々がここで撤退すれば、全ての覇権を失います。トロイに簡単に敗れたと知ったら、ヒッタイトが侵入してくるでしょう。
オデュッセウス:
その通り。だが、我々がここに留まるなら正当な理由が必要だ。
我々はギリシアを守るためにここにいる。あなたのプライドのためじゃない。
あなたとアキレスの個人的な諍いは我々を破滅させかねない。
アガメムノン:
たかがアキレス一人に何が...
オデュッセウス:
今日、ヘクトル一人に我々がどんな目に遭わされたか見たでしょう。
アガメムノン:
ヘクトルは国のために戦っている。アキレスは自分のためにしか戦わない。
オデュッセウス:
彼の愛国心などどうでもいい。大切なのは彼の戦闘能力です。
ネストル:
その通りです。兵士たちの士気は下がっています。
オデュッセウス:
下がっている?今にも泳いで帰ろうとしているぞ。
アガメムノン:
もし儂がアキレスと和解しようとしても、やつは聞く耳を持つまい。話しをするように儂に槍を突き立てるだろうよ。
オデュッセウス:
朝になったら私が彼と話します。
アガメムノンは少しの間考え、頷く。
ネストル:
彼はあの娘を返すよう要求するでしょう。
アガメムノン:
あんな忌々しい娘はくれてやる。儂は手を触れてもいないぞ。
オデュッセウス:
どこにいるんです?
アガメムノン:
兵士たちにくれてやった。今日みたいな日にはお楽しみが必要だと思ったんでな。
オデュッセウスとネストルは顔を見合わせる。

25
−ギリシア軍の焚火
武装したままの、したたかに酔った兵士の一団が焚火の周りに集まっている。彼らは皆、疲弊し、埃と乾いた同胞の血がこびりついている。
4人の男たちが手から手へ、代わる代わるブリセイスを突き飛ばしている。彼らは彼女に手をかける度に、もはや彼女の身体を覆うだけのボロ布となったローブを引き裂く。
彼女は絶望的な表情で、片目にはアザがあり、髪はワインで濡れている。兵士たちは彼女を敵意と欲望の混ざった顔で見ている。
ヒーモン:
トロイの娼婦め。
エケロポス:
こいつがこれ以上トロイ人の父なし子を増やす前に殺しちまったほうがよくないか?
ヒーモン:
いや、こいつはアガメムノンのものだからな。なんだ?こりゃ。処女の衣装か?
もうすぐそんなものは要らなくなるだろうさ。
ヒーモンは鉄の棒を握って火の前に屈み込んでいる。やがて彼は炎の中からアガメムノンの印、白熱したαの焼印を取り出す。彼はブリセイスの前にそれを持ってくる。
ヒーモン:
押さえつけろ。
ブリセイスは焼印を見て抵抗する。彼女は喚き、兵士を蹴る。兵士は4人がかりで彼女を押さえつける。
ヒーモン:
なんで蹴るんだ?トロイの巫女よりスパルタの奴隷のほうがいいぞ。
ブリセイスはヒーモンの顔を引っ掻く。彼は怒りに呻き、彼女を殴りつける。
ヒーモン:
ほらほら、押さえつけとけ。
兵士たちは彼女を砂の上に押さえつける。ヒーモンは彼女の身体のどこに焼印をつけるか眺め回している。
焼印が彼女の腕からわずか数インチまで迫った時、誰かが鉄棒を掴み、ヒーモンの手から取り上げた。そのまま彼の頭に焼印が振り下ろされ、彼は砂の上に倒れる。
アキレスが一人で立っている。彼は焼印以外に武器は持っていない。炎の明りが彼を獰猛に見せている。エケポロスは震えて後退さる。
エケロポス:
アキレス。
アファレウスは砂に唾を吐いて、剣を抜く。
アファレウス:
やつは一人、俺たちは10人だ。
アキレスは目にも留まらぬ速さで鉄棒を振る。アファレウスの顔は割られ、彼は砂の上に崩れ落ちる。
アキレス:
これで9人だな。
兵士たちは逃げ去る。アキレスはブリセイスを助け起こし、これ以上ないほど優しい手つきで彼女の髪と顔から砂を払ってやる。
アキレス:
歩けるか?
ブリセイスは頷く。アキレスは彼女の肩に腕を回し、その場を後にする。

−アキレスのテント
アキレスとブリセイスが、エウドロスとパトロクロスの待つテントに辿り着く。
アキレス:
食べ物と水を持ってきてくれ。新しい服も。
エウドロスが頭を下げる。パトロクロスはアキレスとブリセイスがテントに入るのを見ている。

−アキレスのテントの中
アキレスはブリセイスを見守りながら側に座っている。彼女は汚れを落とし、新しい、彼女には大きすぎる男物の服に着替えている。側には肉や果物を盛った大皿と、水とワインの入った水差しが置かれているが、ブリセイスはそのどちらにも手を付けようとしない。
アキレス:
食べたほうがいい。
ブリセイスは黙っている。
アキレス:
怪我は?
ブリセイス:
なんだと思っているの?
アキレス:
やつらに抵抗するのを見た。勇気があるな。
ブリセイス:
襲われて黙って引き下がるの?犬だってそれくらいの勇気はあるわ。
アキレス:
俺は人より犬のほうが好きだ。
ブリセイスはアキレスの目をまじまじと見つめる。彼はこれまでこんなふうに自分を見る人間に会ったことがなかった。彼は興味をそそられて、彼女を見つめ返す。
ブリセイス:
なぜこんな人生を選んだの?
アキレス:
どんな人生?
ブリセイス:
こんな...高名な戦士になる道を?
アキレス:
選んだわけじゃない。こう生まれついて、そのまま今の俺がいる。
ブリセイス:
でも、殺すのを楽しんでいるでしょう?
アキレス:
蠍は甲虫を刺すのを楽しんでいるか?そうじゃないだろう。何も感じないはずだ。
ブリセイス:
あなたは蠍じゃないわ。人間よ。
アキレス:
そして、きみは神を愛する女だ。やつらがきみを痛めつけていた時、アポロはどこにいたのかな?
ブリセイス:
私を試して面白がっているのね?
アキレス:
そのとおり。
彼らは互いに向き合う。アキレスは微笑み、ブリセイスは怒りの表情で。
アキレス:
きみは神々に人生を捧げた。そうだな?
ブリセイスは彼を睨んだまま答えない。
アキレス:
雷神ゼウス、知恵の女神アテネ。きみは彼らに仕えているね?
ブリセイス:
もちろんよ。
アキレス:
殺した相手の皮を寝床に敷いて眠る戦いの神アレスには?
ブリセイスは嵌められたことに気づき、間を置いて答える。
ブリセイス:
全ての神々は畏れ敬うものだわ。
しばらくの間、二人は互いを見つめたまま黙り込む。二人の間には単なる言い争い以上の雰囲気が満ちてくる。
ブリセイス:
トロイへ何を求めて来たの?スパルタの王妃のためではないのね。
アキレス:
俺が欲しいのは男が皆、欲しがるものだ。俺はさらにその上が欲しいのさ。
アキレスはリンゴを取り上げ、短剣を手にする。彼は手の上でリンゴを弾ませ、3度目に投げ上げた時、短剣を空中に閃かせる。きれいに四つ割りになったリンゴが彼の手に落ちてくる。
彼は一切れをブリセイスに勧める。ブリセイスは唖然とし、ゆっくりと首を横に振る。
アキレスは肩をすくめ、リンゴを齧る。
アキレス:
秘密を教えてやろうか。神殿ではけして教えてくれないことだ。
神々は俺たちに嫉妬している。俺たちが限りある生命だから。どの一瞬も最後の瞬間だから。滅びゆくものほど美しいものはない。
彼は彼女が思わず目を逸らすほど熱烈に見つめる。
アキレス:
今ここにいるきみがいちばん美しい。俺たちのこの瞬間は二度と戻ってはこない。
ブリセイスは少しの間黙っている。彼女は側に置いてある皿の上で熟したブドウをこすり合わせている。
ブリセイス:
あなたのことをバカな獣だと思っていた。
彼女はアキレスの目をのぞき込む。
ブリセイス:
バカな獣だったらよかったのに。

−海岸−深夜
全てが静まり返っている。満月の下でいくつかの焚火だけが燃え続けている。

−アキレスのテントの中
アキレスは鹿革の敷物に背中を預けて眠っている。ブリセイスはその側に跪く。蝋燭の灯りが青銅のナイフの刃を照らす。彼女は彼の喉にナイフを近づける。
アキレスが目を開ける。
アキレス:
やれ。
ブリセイスは刃を喉に押し当てる。
アキレス:
これほど簡単なことはないぞ。
ブリセイス:
怖くないの?
アキレス:
人は皆いつか死ぬ。今でも50年後でも永遠の時から見れば同じことだ。
ブリセイス:
あなたを殺さなければ、もっと大勢の人が死ぬわ。
アキレス:
大勢がな。
なおも数秒間、彼女は彼の喉にナイフを押し当てていたが、ついに下に降ろす。
ブリセイス:
アポロよ、許したまえ。
アキレスは彼女を引き寄せ、ふたりは口づけする。

アキレスはブリセイスの肩からゆっくりと服を滑らせる。彼女は目を閉じ、唇をわずかに開き、彼が服を脱がせる間、震えている。最初の躊躇いはやがて消え失せ、彼女はその身体を彼の身体に
押しつける。彼の首筋に、胸に、手に、口づけを繰り返しながら。
ふたりの互いへの渇望は神や国よりも強いものだった。

26
−入り江−夜明け
バラ色の夜明けの光が差してくる。カモメが空を舞っている。

−アキレスのテントの中
アキレスはブリセイスの寝顔を見ている。彼女はとても若く、とても繊細に見える。顔にはアザが残り、瞼は夢を見ているかのように瞬いている。アキレスは無上の優しさで彼女を見守る。
エウドロスが入口のフラップを上げる。太陽の光が差し込む。アキレスは音を立てないよう合図する。エウドロスはブリセイスを見て頷く。アキレスは彼女の剥き出しの肩に優しく毛布を引き上げ
てやる。彼は立ち上がり、テントの外に出る。

−テントの外
オデュッセウスがテントの外でアキレスを待っている。
アキレス:
(エウドロスに)皆に出航の準備をさせろ。国へ帰るぞ。
エウドロスは驚き、思わずオデュッセウスに目を向け、司令官に頭を下げて立ち去る。
オデュッセウス:
あの娘は見つかったか?
アキレス:
見つけた。
オデュッセウス:
怪我は?
アキレス:
怪我させたやつらほどじゃない。
アキレスは海を見つめる。カモメが空を舞っている。
アキレス:
奥方が恋しいか?オデュッセウス。
オデュッセウス:
いつでも。
アキレス:
俺は今まで誰かを恋しいと思ったことはなかった。自分以外の誰かを必要とするのは弱さだと思っていた。
オデュッセウス:
我々は皆、誰かが必要なんだよ。ちょうど今、ギリシアがきみを必要としているように。
アキレス:
ギリシアは俺が生まれる前からちゃんとやっていたし、俺が死んだ後も何も変わらないだろう。
オデュッセウス:
国土の話じゃない。山や谷は我々が何をしようとお構いなしだ。
ギリシア人にきみが必要なんだ。昨日の虐殺を見るべきだったな。
アキレス:
見たさ。誰が兵士を虐殺に導いたのかも。
オデュッセウス:
アガメムノンはプライドの高い男だ。だが、自分の過ちはわかっている。
アキレス:
その男があんたを代りに謝罪に寄越すのか?やつには誇りがない。あんたはなんだってあの豚の奴隷みたいなことをしているんだ?
オデュッセウス:
友よ、きみにとって世界は単純なものだ。だが、王ともなれば選択肢はごく僅かだ。イタカにはアガメムノンを敵に回す力はない。
アキレス:
やつを恐れたほうがいいと?
オデュッセウス:
きみは何も恐れない。それが問題だ。恐れは役に立つ。留まってくれ、アキレス。きみはこの戦争のために生まれてきたんだ。
アキレス:
戦いが俺の人生だと、そう思うのか?
オデュッセウス:
違うか?
アキレスは再び海を見つめる。
アキレス:
1週間前ならあんたは正しかった。だが、今日、事はもっと単純になったんだ。
オデュッセウス:
女はいつも物事を複雑にする。
アキレスは微笑み、オデュッセウスに向き直り、彼の手を握る。
アキレス:
ギリシア中の王の中で俺が最も尊敬するのはあんただ。けれど、この戦争ではあんたは召使だ。俺はもうこれ以上、召使でいるのは我慢できないんだよ。
オデュッセウス:
時には誰かの命令に従うことも必要だ。いずれきみがそれを理解してくれることを願うよ。
オデュッセウスは去って行く。アキレスは彼を見送り、やがて自分のテントへ向かって歩き出す。
パトロクロスが二人の会話の間中ずっとテントの外に立っていた。
パトロクロス:
帰国するって?
アキレス:
正午には発つ。
アキレスはテントに入ろうとするが、パトロクロスが彼の腕を掴み、行く手を遮る。アキレスはパトロクロスの手をじっと見る。パトロクロスは手を離すが、その場を離れない。
パトロクロス:
ポセイドンの呪いで船が難破したら、黄泉の国で亡霊たちに何と言えばいい?
戦争から逃げ出し、同胞を見捨ててきたと言うのか?
アキレス:
同胞?
パトロクロス:
そうだよ、僕たちの国じゃないか。僕たちはギリシア人だろう?僕は彼らとパンを分け合って、彼らのワインを飲み、彼らの冗談を聞いた。みんな仲間だ。
彼らを失望させられないよ。
あなたとアガメムノンの諍いがギリシア軍を分裂させている。あなたの噂も聞こえてくるよ。みんなはあなたを...
アキレスの怒りが湧き上がるにつれ目が細められていく。
アキレス:
おまえに俺と同じ血が流れていなかったら...
パトロクロス:
でも、同じ血が流れているんだよ。
アキレス:
俺の命令だ。正午に発つ。
アキレスはテントのフラップを上げる。
パトロクロス:
あなたが王の中の王のために僕たちを指揮するつもりがないなら、それはそれでいい。でも、お願いだから、僕にギリシアのために戦うなとは言わないでくれ。亡霊たちが僕の名を訊いた時に、価値ある人生を送ったと教えてやりたいんだ。
アキレスは不可解な表情で、従弟が立ち去るのを見ている。

−プリアモスの会議の広間
会議の間に名士たちが再び集う。プリアモス、ヘクトル、グラウコス、ベリオール、アルケプトレモス。
アルケプトレモス:
前兆が集まりました。指し示すものは明らかです。
ヘクトル:
祖国のために戦え。それが唯一の指示だ。
プリアモス:
(ヘクトルに)前回、神官長は我々にトロイの偉大な勝利を予言した。
我々は勝利した。彼に話をさせなさい。
(アルケプトレモスに)どんな行動を起こせばいいのだ?
アルケプトレモス:
神々は我々の行いを支持するでしょう。今こそギリシア軍を滅ぼす時です。
プリアモス:
グラウコス?
グラウコス:
彼らの士気は下がっています。攻撃しましょう、激しく。彼らは逃げ帰ります。
ベリオール:
私も賛成だ。私はギリシア軍を過大評価していた。彼らには鍛錬と勇気が欠けている。
ヘクトルは疲労し、苛立たしそうに目をこする。
ヘクトル:
昨日、ミュルミドンは戦っていなかった。ギリシア軍の中で何か衝突があったに違いない。けれど、我々が船を攻撃すれば、彼らを結束させてしまうだろう。
彼らが攻撃してくるなら、すればいい。我々の城壁は破れない。再び彼らを追い返せる。
(プリアモスに)昨日はギリシア人が我々を見くびっていました。今日、我々が同じ過ちを犯してはなりません。
プリアモスは対立する意見を熟考する。彼は立ち上がり、部屋の中を歩き回る。彼はアルケプトレモスに向き合う。
プリアモス:
前兆の意味に確信があるのだな?
アルケプトレモス:
神殿への冒涜はアポロを怒らせました。神々はギリシア人を呪っています。彼らの王の2人がすでに塵の中に倒れました。
プリアモスは背中で手を組み、歩き続ける。
プリアモス:
出撃の用意を。正午に攻撃をかける。
ヘクトル:
間違いを犯してはなりません、父上。
父と息子は長いテーブルを挟んで向き合う。
プリアモス:
出撃の用意を。

−アキレスの船
アキレスの船はすでに浅瀬に引き込まれ、離岸に備えている。ミュルミドンたちは梯子を上り、甲板に武具を運び込んでいる。

27
−アキレスの船−内部
ブリセイスはアキレスの船室に座り、彼がハンモックを吊るのを見ている。ふたりの間では何かが変わっている。彼女は偽りの無い優しさで彼を見つめる。
ブリセイス:
私はまだあなたの捕虜なの?
アキレス:
捕虜は嫌な言葉だ。きみは俺の客だよ。
ブリセイス:
トロイではお客様はいつでも好きな時に帰れるのよ。
アキレス:
変った習慣だ。
アキレスは彼女の手をとり、柔らかな掌をつくづくと眺める。
アキレス:
畑で働いたこともなく、木を切ったことも、乳搾りをしたこともない手だ。高貴な生まれの手だな。
彼は自分の手を上げ、彼女に見せる。
アキレス:
俺の手は黄泉の国への入口だ。これまでずっと死と共に歩んできたが、もうその付き合いにも疲れた。
一緒にラリサへ来てくれ。
彼女の唇に小さな微笑が浮かぶ。
ブリセイス:
ラリサ。あなたはそこから来たの?素敵な名前ね。
アキレス:
再び戻れるとは思っていなかった。故郷を後にする時、母が俺の運命を話してくれたから。
ブリセイス:
(真摯に)お母様は神と話せるの?
アキレス:
母には物事がわかるんだ。母は言った。もし俺が故郷に留まれば、長い平和な人生が送れる。もしトロイへ行けば、俺の人生はそこで終る。だが、俺の名は永遠に残ると。
ブリセイス:
そして、あなたはトロイを選んだ。
アキレス:
だが、運命が俺を他の目的でここに連れてきたのだとしたら?戦争の中で安らぎを、きみを見い出すためだとしたら?
ブリセイスは彼の顔を両手で挟んで引き寄せ、唇にキスする。しばらくの間、ふたりは互いに見つめ合うが、やがて鬨の声や角笛、進軍の太鼓の音が辺りの空気を満たす。
アキレスはその音を耳にして顔を上げ、表情を強張らせる。ブリセイスは不安な気持ちで彼を見つめる。

−アガメムノンのテント
アガメムノン、ネストル、オデュッセウスがテントを出る。海岸は狂乱の最中にあった。数千の兵士は大急ぎで武装しながら守備位置へ走る。王たちは小高い砂丘に目を向ける。

−砂丘
馬に跨ったヘクトルとアポロ親衛隊は砂丘の頂上に到着し、ギリシア軍の宿営地を見下ろす。2万5千人の歩兵がヘクトルの後に従う。ヘクトルが合図し、兵士は歩みを止める。

−海岸の宿営地
ギリシア軍の兵士たちは明らかに脅えながら、自らの掘った長い塹壕の中に固まっている。
昨日、トロイ人は彼らを打ち負かし、今再び戻ってきた。

−砂丘
トロイ軍の射手兵は肩から弓を下ろし、矢をつがえる。

28
−海岸の宿営地
ギリシア軍の射手兵が矢をつがえる。
オデュッセウスは部下のイタカ兵と共に戦闘に備えている。ギリシア軍の戦列の遠い端の方から叫び声が上がり、次第に強く、大きくなっていく。オデュッセウスはそちらの方角に目を向ける。
ギリシア軍の兵士なら誰もが知っている特徴ある美しい鎧に身を包んだ、光り輝くような姿がミュルミドンの宿営地から現れる。
オデュッセウス:
アキレス。
ギリシア全軍から喝采の声が上がり、轟音となっていく。アガメムノンは騒動を聞きつけて振り返り、光り輝く戦士を目にする。彼は複雑な思いで、この信じ難い光景に注目する。
数人のミュルミドンと共にいたエウドロスは、彼の主人の予期せぬ出現に感動する。
エウドロス:
皆、鎧を着けろ。
ミュルミドンたちは興奮し、素早く武装する。

−砂丘
トロイ軍はこの勢いに気づいていない。ヘクトルは剣を抜き、ギリシア軍を指し示す。トロイ軍は
突撃する。彼らが射程内に入った時、トロイの射手兵は味方の頭上を越える矢の一斉射撃をかける。
ギリシア軍の射手兵も同時に矢を放つ。2つの矢の群れが空に交差し、下にいる兵士目がけて急降下する。多数のギリシア兵とトロイ兵が砂の上に倒れる。

−ギリシア軍の防衛線
まさにその時、燦然と輝く青銅に身を包んだアキレスが塹壕を跳び越え、太陽の光が磨き上げられた鎧に反射する。
彼はその剣を空に向かって掲げる。ギリシア軍から力強く猛々しい雄叫びが上がる。彼はトロイ軍へ向かって走り、ギリシア兵たちは飛ぶようにその後を追う。
両軍が激突する。昨日戦った草深い平野とは違い、今日の戦闘は砂の上であり、至るところ砂ばかりである。
馬の蹄は砂の塊を蹴り上げ、兵士は砂に足を取られてもがき、赤い血が黄色い砂に水溜りを作る。
だが、地理の違いなど問題ではない。今、ギリシア軍には指導者がいる。ミュルミドンは最前線で、殆どのトロイ兵が初めて出会う獰猛さで戦っている。
トロイ軍の士官は槍を掲げ、アキレスの姿を目がけて馬を駆る。彼が槍を投げる前に、エウドロスの放った槍がその首を捉える。彼は絶命する。
オデュッセウスは戦闘の中でそれを目撃する。彼は一瞬、動揺するが、その心の乱れは、戦斧を振るうトロイ兵に、危ういところで断ち切られる。彼らは戦う。
オデュッセウスはトロイ兵を倒し、アキレスの光り輝く姿を振り返る。彼はなぜか不安を覚える。
トロイ兵の一人が輝ける戦士に剣を振るい、ギリギリのところでその首を刎ね損なう。ギリシアの英雄はトロイ兵の腹に槍を突っ込む。
ミュルミドンは手当たり次第トロイ兵を斬り倒しながら前進する。ギリシア軍はますます勢いを増しながら、着実にトロイ軍を押しやっていく。
今やトロイ人は、ギリシア人がどこからこれほどの情熱を見出してきたのかわからず、恐怖を感じている。
馬に跨ったグラウコス将軍はヘクトルに向かって叫ぶ。
グラウコス:
今日、神々はギリシア軍と共にある。撤退しましょう!
ヘクトルは戦っている最中で、答えない。
ミュルミドンはアポロ親衛隊の精鋭たちに迫っている。ヘクトルも彼らに気づく。ヘクトルは美しい鎧に身を包んだ彼らの指導者を、彼がトロイ兵の突進を軽々とかわし、相手を斬り倒すのを目に留める。
ヘクトル:
アキレス。
ヘクトルは後を追う。彼は馬の手綱を引き、ミュルミドンたちへと向かわせる。アポロ親衛隊は護衛のため周囲を取り囲み、同じ方向へ移動する。

−ギリシア軍の防衛線
2つの精鋭部隊が激突する。彼らは熟練した兵であり、卓越した技で槍と剣を振るう。
ヘクトルの馬が砂の深みに嵌る。ヘクトルはそれ以上の騎乗を諦め、馬上から砂の上に降り、光り輝く戦士のもとへ走る。ミュルミドンの一人が行く手を阻む。彼らの戦闘は素早く決着する−ヘク
トルは剣の一振りで相手を倒す。
今、彼は顔と顔(兜と兜)をつき合わせて、栄光あるアキレスの姿と向き合う。二人の戦士は激しい戦闘の疲れで荒い息を吐きながら、しばらくの間じっと立っている。
複雑な意匠を凝らしたアキレスの兜、鎧、楯、全てが光り輝いている。長い間見つめるのが困難なほどに。彼は剣を掲げ、突進する。
二人は戦う。周囲では戦闘が続いているが、誰もが決闘が繰り広げられていることに気づく。
光り輝く戦士はヘクトルよりも身軽に素早く動き、青銅の刃を繰り返し振るう。ヘクトルは我慢強く耐え、連打を受け流しながら、相手に隙ができるのを待つ。
アキレスの剣がヘクトルの頭上で空を切る。あまりにも大振りだったために、とっさに体制を立て直せない。
ヘクトルはこの隙を見逃さず、素早く剣を振るい、刃はアキレスの兜のすぐ下の柔らかな肉に刻み込まれる。
斬られた喉から大量の血が噴き出す。戦士は倒れる。
全てが静止する。戦闘は続行中であり、各々の兵士はその生命を賭けて戦い続けているが、ギリシア軍からは絶望の喘ぎが募る。
オデュッセウスは茫然として地面に横たわる身体を凝視する。ヘクトルは倒れた男の横に立つ。
彼は剣の先を青銅の兜の内側にこじ入れ、持ち上げて外す。
パトロクロスが死に瀕している。呼吸しようとするたびに喉から血を溢れ出させ、目には恐慌を浮かべて。
ヘクトルは瀕死の少年を、血に染まった貝殻の首飾りを見下ろす。
束の間、彼らは互いに見つめ合う。勝利者であるトロイの王子と砂の上に倒れた少年が。
パトロクロスの呼吸のゴボゴボいう音が明らかに王子を動転させている。
苦悩に満ちた叫び声と共に彼は剣を振り上げ、振り下ろす。少年はその最期を受け入れる。
ヘクトルは彼の側で茫然と立ちすくむオデュッセウスに目を向ける。ギリシア軍はトロイ軍を海岸から草深い内陸の平野まで追いやっていたが、今、戦闘は止まっている。
ヘクトル:
今日はもう充分だな?
オデュッセウスは頷く。ヘクトルはグラウコスに呼びかける。
ヘクトル:
武器を下ろせ!城塞へ戻れ!
グラウコスは命令を伝える。オデュセウスは副官たちに命令する。
オデュッセウス:
武器を下ろせ!海岸へ!
オデュッセウスは剣を鞘に収め、パトロクロスに近づく。彼は遺体の側に膝をつき、恐怖に見開かれた目を閉じさせる。ヘクトルとオデュッセウスは一瞬、視線を交わす。
ヘクトルは馬に跨り、彼の兵士たちを連れて帰途につく。両軍は撤収する。エウドロスが少年の遺体に駆け寄り、跪く。
エウドロス:
正午には帰国するはずでした。
オデュッセウス:
今となっては、もう誰も帰国しないだろう。

29
−アキレスの船
エウドロスは船に辿り着き、何度か深呼吸してから彼の司令官に呼びかける。
エウドロス:
アキレス!
アキレスが船室から現れ、舳先へ歩き、梯子を降りる。ブリセイスが後に続く。
エウドロスが頭を下げる。アキレスは彼の副官を検分する。エウドロスは汗まみれで汚れ、手には乾いた血がこびり付いている。兜はとっているが、鎧は身に着けたままである。
アキレス:
戦ってきたな。
エウドロス:
ご主人様...
アキレス:
俺の命令に背いたのか。
エウドロス:
そうではありません、ご主人様。間違いがありました。
アキレス:
間違いだと?俺はミュルミドンに待機するよう命じた。おまえが皆を戦闘に連れ出したのか?
エウドロス:
私ではありません。
エウドロスは彼の司令官に目を合わせられない。
アキレス:
では、誰だ?
エウドロス:
あなただと思っていました。
アキレスは、彼が見つめ続ける副官の顔から最悪の事態を告げられようとしている。彼は宿営地を見回す。戦闘から帰還した兵士たちは誰もアキレスを見ようとしない。
アキレス:
パトロクロスはどこだ?
エウドロス:
我々はあなただと思っていました、ご主人様。我々は...彼はあなたの鎧を着けていました。あなたの楯、あなたの脛当て、あなたの兜を。
ご主人様、彼は死にました。
アキレス:
嘘をつくな。
エウドロス:
嘘ではありません、ご主人様。けして。彼はまるであなたのようでした。歩き方まで。我々は皆、後に続き...
アキレス:
嘘だ。
エウドロス:
彼はよく戦いました、ご主人様。素晴らしい勇気でした。けれど、ヘクトルが彼を追ってきたのです。
アキレスは憤怒の形相になる。
エウドロス:
私が彼を助けられたなら...
アキレスはエウドロスの口元を激しく殴りつける。副官は砂の上に倒れる。アキレスは拳を固く握り締め、彼の前に立ちはだかる。エウドロスは口を押さえる。すでに血が流れ出している。
アキレス:
嘘だ!
エウドロス:
ご主人様、私は彼の死を見届けました。
アキレスはエウドロスの髪を掴んで足元に引き倒し、その剣を引ったくり、振り上げる。
ブリセイスがアキレスの肩を掴む。
ブリセイス:
やめて!
アキレスは空いている手で彼女の喉を掴む。彼女は彼の手首に爪を立てる。彼女の足は地面から浮き、痙攣して空を蹴る。
目を大きく見開き、彼女は彼を見つめる。先程まで彼の目にあった、あれほどの暖かさも、あれほどの優しさも、今はもうどこにもない。
アキレスは彼女を放す。彼女は地面に投げ出され、空気を求めて喘ぎ、啜り泣き始める。
アキレスはエウドロスを解放する。副官はそのままの姿勢で主人を見つめる。
アキレス:
死んだ?
エウドロス:
ヘクトルに喉を斬られて。
アキレスは火の消えた焚火の跡へと歩いていく。彼はエウドロスの剣を投げ捨て、灰の中に跪き、手に一杯の煤を掴み、顔に塗りつける。
アキレスは立ち上がり、剣を掴み、海へ向かって歩く。彼は海水に足首が、膝が、腹が浸かるまで歩き続ける。
波が高くうねり、彼の上に砕ける。だが、アキレスはそれを避けようとしない。うめき声を上げながら、波の飛沫に剣を叩きつけ、波頭に切りかかり、戦い続ける。海岸にいる兵士たちが彼を見ている。
アキレスは海と戦っている。

30
−宮殿の庭−夜
ヘクトルは松明を掲げ、アンドロマケを連れて下層階の庭を通り抜け、アポロ神殿から続く階段を下り、半ば蔦に覆い隠された扉の前に来る。彼は扉を開ける。

−宮殿の内部−隠された通路
アンドロマケはヘクトルに従い、宮殿の奥の暗がりへ入って行く。
アンドロマケ:
どこへ連れていくつもり?
ヘクトルは彼女を青銅の帯を渡した樫の木の扉の前に連れて行く。彼が扉を開けると、そこには暗いトンネルの入口がある。
ヘクトル:
ここまでの道順は覚えたな?
アンドロマケ:
ええ。
ヘクトル:
次にここに来た時はこのトンネルを辿って行け。曲がり角はないから迷うことはない。歩き続けろ。
アンドロマケ:
ヘクトル...
ヘクトル:
外に出たらスカマンデル川の南側を行け。イダ山まで川に沿って行くんだ。
イダ山を西側にして南へ歩けばリュルネソスにたどり着く。ギリシア軍も 内陸の奥深くまでは追ってこないだろう。
アンドロマケ:
脅かさないで。
ヘクトルはトンネルの暗闇をのぞき込む。
アンドロマケ:
ヘクトル。なぜ今こんなことを言うの?
ヘクトル:
もし私が死んだら...
アンドロマケ:
やめて!
ヘクトル:
私が死んだ後、トロイの城塞がどれほ持ち堪えられるかわからない。
アンドロマケ:
そんなことは言わないで。
ヘクトル:
ギリシア軍が城門の中に入れば、全てが終りだ。彼らはトロイ人を皆殺しにする。
老人でもお構いなしに寝床から引っ張り出して切り刻むだろう。
アンドロマケ:
お願い、やめて。
ヘクトル:
子供も免れない。赤ん坊は城壁から投げ落とされる。
アンドロマケは目をつぶる。
ヘクトル:
女たちは奴隷として連れて行かれる。死ぬより辛い目に遭うだろう。
アンドロマケ:
なぜそんなことを言うの?
ヘクトル:
きみに覚悟しておいてほしいからだ。私たちの息子をここに連れてきてくれ。
できるだけ多くの人々を。連れて来られるだけ。必ずここに。この階段を下りたら走れ。わかったな?
彼女は頷く。蝋燭の揺れる炎が石の壁に大きな影を落としている。
ヘクトル:
今日、少年を殺してしまった。あまりにも若すぎた。まだほんの子供だった。

−海岸の宿営地
パトロクロスの遺体は、がっしりと組まれた薪の上に、簡素な白装束に包まれて横たわる。
煤を全て海で洗い流し、身なりを整えたアキレスが、パトロクロスの顔を湿らせた布で拭く。
アキレスは母親のような細心さで少年の唇から乾いた血を、顎から泥を、喉の傷から血の塊を拭い去る。彼は貝殻の首飾りを外す。
アガメムノンは薪の山を取り囲む群衆の中でネストルの隣に立っている。彼は喜びを隠そうともせずに、この儀式を見ている。
アガメムノン:
あの少年がこの戦争を救ってくれるかもしれんな。
オデュッセウスも近くにいる。憂鬱と疲労感が彼を老けて見せている。
遺体がすっかりきれいになると、アキレスは2枚の硬貨を取り出し、両目に1枚ずつ載せ、少年の額にキスし、薪の山を下りる。エウドロスが彼に松明を手渡し、アキレスは薪に火を点ける。

−アキレス
アキレスは薪積みの前に立ち、従弟が焼かれるのを見守っている。ブリセイスは側に座り、炎を見ているアキレスを見守っている。

−アガメムノン
テントの中に座り、トロイの地図にXの印を付けている。顎を固く引き締めて地図に描かれた敵を侵略している。

−プリアモス
宮殿のバルコニーに立ち、市街を見下ろしている。

−ヘクトル
息子の揺りかごの横に立ち、眠る彼を見ている。

−ヘレン
ベッドに横たわっている。彼女は短い間隔で繰り返すパシッという音を聞きつけ、起き上がり、アーチ窓へ向かう。

−窓から見える宮殿の庭
パリスが月光の中で、繰り返し標的に矢を放ち、弓の特訓をしている。

31
−海岸の宿営地−夜明け
アキレスはその場を動かず、薪が燃え尽き、崩れ落ちるのを見守る。彼はテントへ向かって歩き出す。途中、ブリセイスの前を通りかかる。彼女は砂の上で束の間の眠りに落ちている。
彼は彼女の首に自分が作ったアザを見る。いつものごとく彼の表情からは何も読み取れない。
しばらくの間、彼は彼女を見つめ、立ち去る。

−アキレスのテント
アキレスはエウドロスがテントの外で眠っているのを見つける。
アキレス:
エウドロス。
エウドロスは自分がどこにいるか一瞬わからない様子だが、彼の主人の声を認め、飛び起きる。
エウドロス:
ご主人様。
アキレス:
俺の鎧を持ってきてくれ。
エウドロスは頭を下げ、走り去る。

−アキレスのテントの中
エウドロスはアキレスの身支度を手伝う。脛当てを着ける。

−ヘクトルの私室
ヘクトルは自分の部屋で身支度している。脛当ての留め具を締める。傍らには妻と息子が眠っている。

−アポロ神殿−朝
ヘクトルはアポロ像の前に跪き、頭を下げている。彼は顔を上げ、ほとんど太陽に見入っている。

−アキレスのテント
アキレスは完全武装してテントを出る。エウドロスが後に従う。活動し始めていた兵士たちは動きを止め、彼に注目している。
2人のミュルミドンが大きな黒馬を馬車に繋ぐ。全ての用意が整うとミュルミドンたちは後に下がり、アキレスは馬車に飛び乗る。エウドロスが後に続こうとする。
アキレス:
よせ。
エウドロスは一瞬、彼の司令官を見つめ、後に下がる。
アキレス:
ロープを。
ミュルミドンは巻いてあるロープを手渡し、後退する。
ブリセイスが現れる。彼女は寝不足の翳りのある目をしてアキレスを見上げ、アキレスも彼女を見つめる。今日の彼女は今にも壊れそうな様子で、血の気のない喉はアザで紫色になっている。
ブリセイス:
行かないで。
アキレスは無言で彼女を見ている。
ブリセイス:
ヘクトルは私の従兄なの。彼はいい人よ。
私をラリサへ連れて行って。彼とは戦わないで。お願い、戦わないで。
あなたが戦いを選ばなければ、私たちは一緒に生きていけるわ。
あなたは戦いから遠ざかることもできる。私たちにはそれができるのよ。
アキレスはその言葉を噛みしめながら、彼女をじっと見つめる。
彼は手綱を引き、馬はトロイの城塞へ向かって駆け出す。

−トロイの城壁
城壁の上の見物席が人々で埋まり始めている。
プリアモスは彼の側近たちと青い天蓋の下に座る。
パリスは彼らの側に座っているが、彼らと一緒ではない。彼は誰も見ようとせず、人々も彼を見ないよう気を配っている。
ヘクトルはひとり壁の一角にある櫓に立ち、海を見つめている。

−戦場
アキレスを乗せた馬車が広大な平野を進んでくる。

−トロイの城壁
ヘクトルは馬車が単独で近づいてくるのを見る。

−戦場
アキレスは城壁から100ヤード離れた位置で馬車を止める。彼は馬車を降り、兜を手にトロイへ向かって歩く。

−トロイの城壁
ヘクトルの横にいた射手兵が矢をつがえる。
ヘクトル:
よせ。
ヘクトルは離れた所にいるグラウコスに手で合図する。攻撃するな。
−戦場
アキレスは広大な平野に一人で立っている。彼は自分を見下ろしているトロイの市民を見上げる。
アキレス:
ヘクトル!
その背後で数百人のギリシア兵が小高い砂丘の上に集まってくる。
アキレス:
ヘクトル!
彼の声は次第に大きく、静寂の市街に響き渡る。
アキレス:
ヘクトル!ヘクトル!ヘクトル!
−トロイの城壁
ヘクトルは父王の前へ歩いていく。アキレスは彼の名を叫び続けている。ヘクトルは父の前に跪き、その手に口づけする。
ヘクトル:
父上。数々のご無礼をお許し下さい。私は最善を尽くしてお仕えしてきました。
プリアモスは立ち上がり、ヘクトルにも手招きして立ち上がらせ、両手で彼の頬を挟み、額にキスする。
プリアモス:
神々がおまえと共にあるように。
ヘクトルは少しの間躊躇うが、やがて頭を下げ、立ち去ろうとする。
プリアモス:
ヘクトル!
ヘクトルは引き返す。父と息子は互いに見つめ合う。プリアモスはしばし言葉を失う。やがて
プリアモス:
おまえのような息子を持てる父親は他にいない。
その言葉はヘクトルを深く衝き動かす。彼は再び頭を下げ、歩き出す。彼は頭を下げるグラウコスの前に来る。
グラウコス:
王子よ、アポロが護って下さいます。
ヘクトルは老将軍の肩に手を置き、歩き続ける。彼はパリスの前で足を止める。二人は抱き合う。
パリス:
兄さんに敵う者はいないよ。
ヘクトル:
おまえはトロイの王子だ。
ヘクトルはパリスの腕をしっかりと掴み、目をのぞき込む。
ヘクトル:
私はおまえを誇りに思うだろう。
ヘクトルはパリスの額にキスし、兜を着け、歩き続ける。

−階段
城門へ続く階段の上でアンドロマケがヘクトルを待っていた。彼女は息子のスカマンドリウスを抱いている。
ヘクトル:
私が言ったことを覚えているな?
アンドロマケ:
行くことはないわ。行かないで...
ヘクトル:
私が言ったことを覚えているな?
アンドロマケは眠っていない。彼女の髪はもつれ、目は泣き腫らして赤くなっている。だが、彼女は頷く。彼女は息子を、その父親に向かって差し出す。赤ん坊の目に映ったのは、いつもの父親で
はなく、何か恐ろしいもの、青銅の顔と馬の鬣を持つ見知らぬ男である。
スカマンドリウスが泣き始める。ヘクトルは兜をとる。赤ん坊は父親を見て笑い、手を伸ばす。
ヘクトルは息子を受け取り、その腕に抱く。彼は息子のふわふわした髪にキスし、しばらくの間、目をつぶる。
やがて彼はアンドロマケの手に赤ん坊を戻す。彼は妻に笑いかける。彼女は彼の頭の後ろを掴んで引き寄せ、互いに顔を押しつける。彼女は目を閉じ、口を開き、身体は彼の身体に向かって撓む。
ついに彼は身体を離す。彼は歩き去る。アンドロマケとスカマンドリウスはその後ろ姿を見送るが、彼はけして振り返らない。

32
−城門
彼は城門へ続く長い階段を下りていき、どっしりとした門の前で立ち止まる。門番は門扉を開けるため、長い鎖を牽引し始める。
彼は背後に人の気配を感じ、振り返る。この世のものとも思えない、これまでで最高の美しさで、ヘレンが10フィート先に立っている。重厚な扉が上がっていく間、ヘクトルとヘレンは、瞬きも
せず、目を逸らすこともなく、互いに見つめ合う。
ついに扉が引き上げられる。ヘクトルはヘレンに向かって頭を下げ、兜を着ける。彼は城塞を後にする。ヘレンは彼が去るのを見守る。

−戦場
ヘクトルはアキレスに向かって歩いていく。辺りに音はない。壁の上の人々は静まり返り、鳥でさえ畏まっているようである。
数千人のギリシア兵が次々と砂丘に並び、戦場の谷間を、砂丘とトロイの壁に群がる観客が取り囲んだ円形劇場に変えている。
アキレスは身じろぎもせず立っている。彼らは広大な戦場に二人きりである。ヘクトルはアキレスから20フィート離れた位置で立ち止まる。
ヘクトル:
この瞬間を夢に見ていた。
アキレスは無表情に王子を見ている。
ヘクトル:
私は神々にかけて、きみに約束する。我々の間で、勝者は敗者に正式な葬儀を認めることを。
アキレス:
ライオンと人との間に約束などない。
アキレスは兜を投げ捨てる−ヘクトルの戦闘技術を見くびった侮辱的な行為である。
アキレス:
今度こそ戦う相手を間違えるな。
ヘクトルは一瞬躊躇うが、やはり兜をとり、投げ捨てる。
ヘクトル:
昨日の相手はきみだと思っていた。きみだったら良かった。だが、あの少年には名誉を...
アキレス:
剣で名誉を与えたか。
今夜、おまえは目を失う。耳も舌も。見えず聞こえず話せない姿で黄泉の国を彷徨え。亡霊たちは皆、知るだろう。これがヘクトル、アキレスを殺したと思い込んだ愚か者だと。
アキレスは剣を抜く。ヘクトルも剣を抜き、互いに距離を詰める。
33
類稀な戦いはこれまでにもあったが、これは他のどの戦いとも違う。あまりにも素晴らしい戦闘は、さながら催眠術のようだ。2人の優れた戦士は、この時初めてぶつかり合う。彼らの人生の全てが、鍛錬と過去の戦いの全てが、彼らをこの瞬間に導いたのだ。
無駄な動きは一切ない。派手な動きも舞踏的な跳躍や旋回もない。剣の一振り一振りが死をもたらす逆風となる。剣を交わす速さは息もつかせぬほどである。
青銅の刃は鋭い音を伴い、空気を切り裂く。刃が楯を削るたびに火花を散らすほど力強く彼らは剣を振るう。

−砂丘
アガメムノン、ネストル、オデュッセウスは部下たちと共に立っている。この瞬間、全ての策略も陰謀も忘れ去られている。誰もがこの戦いは永遠に語り継がれるものだと確信し、沈黙のうちに見守っている。

−戦場
ヘクトルはアキレスを串刺しにしようと突進する。ヘクトルの顔は至近までアキレスに迫る。
アキレスは動じない。ヘクトルは視線を下げる。
アキレスは彼を罠にかけたのだ。脇腹に、わずかに外してヘクトルに突きを入れさせ、その腕を捉え、締め上げる。ヘクトルは腕をぐいっと引っ張るが、外せない。
アキレスはヘクトルの顔を突き刺そうとするが、ヘクトルはぎりぎりでかわす。剣の切っ先は正確に彼の頭のあった空間を切る。アキレスはヘクトルを放し、再び勇猛な剣の一振りを浴びせる。

−トロイの城壁
アンドロマケはスカマンドリウスを抱いて、壁に背を向けて座っている。とても見ていられない。
赤ん坊は幸いなことに何が起きているかも知らず、この上なく幸せそうに喉を鳴らしながら、母親の長い髪を弄んでいる。

−戦場
アキレスは優位に立ったと思い、歩調をとって距離を詰める。ヘクトルは隙を見つけ、斬りつける。
アキレスはすんでのところで跳びのくが、ヘクトルの刃は彼の鎧の胸当てから青銅の細長い一片を抉り取った。
二人の男は剣を振るう。剣がガシッと絡み合い、しばらくの間、全てが静止する。二人の顔はわずか数インチしか離れていない。ヘクトルは汗まみれで息を荒くしているが、アキレスは違う。
アキレスはヘクトルを押しのけ、再び攻勢に出る。ヘクトルはまだ戦い続けられるとしても、明らかに疲労している。アキレスが振るった剣から後退さった時、王子は石を踏みつけて躓き、倒れる。
アキレスは彼の前に立ちはだかる。
アキレス:
起きろ、トロイの王子。俺の名誉を石にくれてやるつもりはない。
ヘクトルは立ち上がる。彼は自分の体力が急速に衰えていることを知っている。ゆえに彼はその全てを使って最後の攻撃を試みる。彼は勇猛さを爆発させて剣を振るい、一振りごとに彼の勇気を注ぎ込み、突撃する。連打を終えたヘクトルは息をついてアキレスを見るが、彼は全ての攻撃を受け流し、無傷で立っている。今度はアキレスが打ちかかる。
ヘクトルは防ぎに防ぐが、もはや新たな攻撃に耐えられる力は残っていない。
アキレスが剣を突き出す。ヘクトルは楯を掲げる。剣は7層に重ねられた雄牛の革を、楯に打ちつけられた青銅を、鎧の胸当てを貫いて、ヘクトルの心臓に達した。
ヘクトルは刀身を見下ろし、アキレスを見る。慈悲も良心の呵責もない男の顔を。
ヘクトルは倒れる。

−トロイの城壁
プリアモスは自分が打撃を受けたかのように、胸をかきむしり、よろめいて後退さる。パリスは前へ飛び出し、壁の縁を拳が白くなるほどに強く掴む。
アンドロマケは群集の呻き声を聞く。彼女は耳を塞ぎ、固く目をつぶる。スカマンドリウスはまごつきながら彼女を見つめる。

34
−戦場
ヘクトルは仰向けに倒れている。アキレスは彼の身体から剣を引き抜き、馬車へ歩いていく。
ヘクトルは瞬きをする。空の高みにある太陽に目が眩む。彼は太陽を見つめながら死を迎える。
沈黙が辺りを支配する。ギリシア側からも勝利の雄叫びは上がらない。
アキレスは馬車に戻り、ロープを持ってくる。彼はヘクトルの足首を結び合わせ、ロープのもう一方の端を馬車の後ろに結ぶ。

−トロイの城壁
パリスの顔に厳しい表情が浮かぶ。アキレスがヘクトルの遺体に加えた侮辱を見て、あのひ弱さは姿を消したようだ。プリアモスと側近たちは恐怖に震えている。
プリアモス:
息子よ...息子よ...
アンドロマケは壁に背を向け、膝を胸に引き寄せ、顔を膝に伏せて座り込んでいる。スカマンドリウスが泣き出す。ヘレンがアンドロマケの側に跪く。彼女は赤ん坊を取り上げ、あやす。ヘレンはアンドロマケの手をとる。アンドロマケはヘレンを見上げる。彼女は正視に耐えない目をしている。
ヘレン:
中へ入りましょう。
アンドロマケはヘレンが手助けするままに立ち上がる。ヘレンは片腕に赤ん坊を抱き、アンドロマケを導き去る。

−戦場
アキレスは馬に鞭を入れ、ヘクトルの遺体を草の上に引きずりながら、馬車が走り出す。

−トロイの城壁
プリアモスはもはや立っていられない。彼が倒れる前にパリスとグラウコスが身体を支え、天蓋の下の日陰に運び入れる。

−砂丘
アキレスの馬車が砂丘の頂に乗り込んでくる。ギリシア軍は沈黙し、厳粛に紅海のように二つに分かれる。

−海岸の宿営地
アキレスは馬車を宿営地に乗り入れる。ギリシア兵たちがヘクトルの遺体を見ようと周りを取り囲む。アキレスは誰にも目を向けない。彼はロープを解き、砂の上を、その手でヘクトルの遺体を
引いて行く。
オデュッセウスは兵士に囲まれて立っている。何人かの兵士がトロイの王子の死を見て笑っている。
兵士:やつもこうなっちゃ、そう立派には見えないな。
オデュッセウスがその兵士を振り返り睨みつけると、彼は慌てて口を閉じる。オデュッセウスは歩き去る。
アキレスはヘクトルの遺体を自分のテントまで引きずって行き、その場に乱暴に下ろし、中へ入る。

−アキレスのテント
ブリセイスはテントの中央に跪き、両手を固く結び、目を伏せ、祈っている。アキレスが入ってくると、彼女は目を開き、彼を見上げる。
彼はヘクトルの血にまみれ、まるで野獣のように見える。ブリセイスは彼の顔を見て何が起きたかを知る。この時初めて彼女はその気丈さを失った。彼女はまるで幼い子供のように泣き始める。
アキレスはしばらく彼女を見つめ、自分の寝床へ行き、仰向けになる。ブリセイスはむせび泣く。

35
−海岸の宿営地−夜
海にかかる満月の下、焚火もなく、歩哨以外は皆、眠りについている。

−アキレスのテント
アキレスは汚れを落とし、テントの中央に座り、剣を研いでいる。ブリセイスは彼から離れて座っている。彼女は何時間も泣き続け、目を腫らしている。
ブリセイス:
あなたは従弟を失って、私の従兄を奪った。
アキレスは目を上げて、彼女を見る。
ブリセイス:
いつになったら終わるの?
アキレスは剣を研ぎ続ける。
アキレス:
終わりなんかない。
ブリセイスは彼をしばらく見つめ、テントを出て行く。アキレスは研ぐのをやめる。
今そこにあるのは静寂と青銅の剣だけである。

−トロイの海岸
ブリセイスは月の輝く海に顔を向け、砂浜に座っている。

−アキレスのテント
アキレスは虚ろな目をして、ひとり座っている。彼は入口のフラップがこすれる音を聞く。フードで顔を隠した老人が一人、入ってくる。老人はフードを引き下げる。プリアモス王である。
アキレス:
誰だ?
プリアモスはアキレスの視線に身体を傷つけられたかのように、一瞬、崩れ落ちそうな様子を見せる。
だが、意志の力が彼を前へ進ませ、彼はアキレスの前に跪く。彼は深く膝を折り、アキレスの両手を取り、キスをする。アキレスは一連の出来事を物珍しそうに見ている。
プリアモス:
私はかつてこの地上の誰も耐え忍んだことのないことに耐えた。息子を殺した男の手に口づけするとは。
アキレス:
プリアモス王?
プリアモスは頷く。アキレスは立ち上がり、彼が立つのを助ける。
アキレス:
どうやってここへ?ご老人。歩哨たちは...
プリアモス:
自分の国のことはギリシア人よりもわかっているつもりだ。
アキレス:
勇敢な人だ。アガメムノンがこのことを知ったら即座に首を刎ねられるだろうに。
プリアモス:
きみは本気で今さら私が死に脅えると思っているのか?私は自分の長男の死と、きみがその遺体を馬車で引いて行くのを見たのだ。
プリアモスはアキレスを見つめる。この時おそらく初めて、アキレスは目を逸らす。
プリアモス:
息子を返してくれ。彼は正式に葬られるべき栄誉のある人間だ。きみにもわかる だろう。彼を返してくれ。
アキレス:
彼は俺の従弟を殺した。
プリアモス:
息子はきみだと思ったのだ。彼は自分の国を守った。きみは何人の従兄弟たちを殺してきた?何人の息子を、父親を、兄弟を、夫たちを?どれくらい?勇者アキレスよ。
きみの父上を知っていた。若くして亡くなった。だが、自分の息子の死を見ずに済んだのは幸運だった。
アキレスは答えない。彼の表情からは何も読み取れない。
プリアモス:
きみは私の全てを奪った。私の長男、王座の継承者、王国の守護者。
起きてしまったことは変えられない。神のご意志だ。だが、私にささやかな慈悲をくれないか。
アキレスは老人の目をのぞき込む。プリアモスは懸命に涙を堪えている。
プリアモス:
私は息子を、彼が目を開けた時からきみが目を閉じさせるまで愛してきた。
息子の身体を洗わせてくれ。祈りを上げさせてくれ。黄泉の川の渡し賃の硬貨を目の上に置かせてくれ。
アキレス:
あなたに彼を渡し、ここから立ち去らせても何も変らない。朝になれば、あなたは 俺の敵だ。
プリアモス:
今夜もきみは私の敵だ。けれど、敵同士でも敬意は払えるだろう。
アキレスは頷く。
アキレス:
あなたの勇気に敬服する、ご老人。あなたはこの軍を率いている王より素晴らしい人だ。しばらくしたら外に来てくれ。

−アキレスのテント−外
アキレスは松明と遺体を包む白布を持ってヘクトルの遺体が置いてある場所へ行く。彼は死せる王子の横に屈み込む。死は王子の顔からその尊厳を損なってはいなかった。
小さな蟹が遺体に近寄ってくる。アキレスは蟹を追い払い、松明の持ち手を砂に突き立てる。アキレスは目をこすり、深く息をつく。彼の目には(信じられないことに)涙が光っている。
しばらくの間、彼は途方にくれたような様子だったが、やがてヘクトルの遺体を白布で包み始める。
アキレス:
すぐにまた会えるだろう。

−アキレスのテント
プリアモスは頭を垂れ、深い悲しみに沈んで座っている。彼はテントの外の物音を聞きつけ、立ち上がり、出て行く。

36
−海岸の宿営地
アキレスは白布で包んだヘクトルの遺体を月明かりに照らされた馬車に丁寧に積んでいる。
プリアモスは馬車へ向かう。
4人のミュルミドンが敬意を表して距離を置き、護衛している。
アキレス:
あなたの息子は俺が戦った中で最高の戦士だった。あなたにはそれを知っていてもらいたい。俺の国では葬儀の期間は12日間だが。
プリアモス:
我が国でも同じだ。
アキレス:
では、12日間、ギリシアはトロイを攻撃しない。王子の受けるべき栄誉として。
アキレスは足音を聞きつけ、振り返る。ブリセイスが物陰から姿を現す。プリアモスは驚く。
プリアモス:
ブリセイス?
プリアモスは彼女が生きていることに感激し、その腕に抱く。
プリアモス:
おまえは死んでしまったとばかり思っていたよ、可愛い白鳥。
ブリセイスはアキレスを振り返り、見つめる。しばらくの間、誰もが無言である。ブリセイスの目に涙が光る。
アキレス:
城壁の中にいれば安全だ。
アキレスは服の中からパトロクロスが身につけていた貝殻の首飾りを取り出し、彼女のまだ紫色のアザが見える首に留める。彼が彼女に語りかける声はとても静かで、プリアモスの耳には優しすぎるようにさえ聞こえる。
アキレス:
きみを傷つけたくはなかった。戦いに明け暮れる人生の中で、きみは一晩のやすらぎをくれた。
彼女は彼を見上げる。彼女の若い顔には複雑な感情が入り混じっている。ついにアキレスはプリアモスに振り返る。
アキレス:
行ってくれ。誰にも邪魔させない。俺が約束する。
プリアモスは馬車に乗り込む。ブリセイスはまだアキレスを見つめている。
プリアモス:
来なさい、娘よ。
プリアモスは手を差し伸べ、ブリセイスが馬車に乗るのを助ける。彼は手綱を引き、馬車は出発する。ミュルミドンたちが護衛のため、ついて行く。アキレスはブリセイスが見えなくなるまで見守っている。

37
−アガメムノンのテント
アガメムノンは誰かを殺さんばかりに激怒し、テントの中を歩き回っている。
オデュッセウス、ネストルと数人の側近が席に連なっている。
アガメムノン:
(叫び声で)アキレスが敵と密約を交わし、儂にそれを遵守しろと!?
大逆罪だぞ!
(吐き出すように)敵の王と通じ、12日間の休戦を与えるとは!
休戦だと!やつらの王子は死んだ。指導者はいない。今こそ攻撃の時だ!
ネストル:
ヘクトルが死んでも、城壁は破れません。我々が去るまで彼らは10年でも待つでしょう。
アガメムノン:
やつらの壁を打ち倒してやる。たとえ4万の兵力を費やしても。
聞け、ゼウスよ。儂はやつらの壁を打ち倒すぞ。
オデュッセウスとネストルは心配そうに目配せを交わす。

−焚火
オデュッセウスは部下のイタカ人たちと焚火を囲んで座っている。彼らは魚を焼いて朝食にしている。オデュッセウスの隣にいる兵士がナイフで何か彫っている。
オデュッセウスは兵士の作業に注目する。兵士は彼の王の注視に気づく。彼は笑って小さな木の馬を掲げる。
兵士:息子への土産です。
オデュッセウスは木馬から目を離さずに頷く。

−アガメムノンのテント
数百人のギリシア兵が朝食を摂っている。アガメムノンのテントへ急行し、中へ姿を消すオデュッセウスを、何人かの兵士が振り返る。

−トロイの中央広場
広場の中央に巨大な薪の山が築かれ、数千人の市民が周囲に集まっている。かつてない静寂である。
この国は最愛の息子を失ったのだ。
ヘクトルは白と黄金で織られた装束に身を包み、薪の山の上に横たわっている。彼の髪は洗って香油をかけられ、皮膚は清潔に光っている。顔に損傷はない。両目の上に2枚の硬貨が置かれている。
プリアモスは松明を掲げ、薪の山の足場に立っている。彼の手は震え、薪に点火することができない。
やがてパリスが父の肩に手を置く。彼は父の手から松明を取り、薪に火を点ける。
ヘレンとアンドロマケ、赤ん坊のスカマンドリウスも参列している。アンドロマケは全くの虚ろな表情で、炎が勢いよく燃え上がるのをぼんやりと見ている。ヘレンは膝の上にスカマンドリウスを抱いている。彼は父親が彼のために作ったオモチャのライオンで遊んでいる。

−海岸の宿営地
松明の灯りの中で、ギリシア兵たちが2隻の燃えた船から木材を引き剥がしている。要塞から大クギが引き抜かれる。
オデュッセウスは、木材が運ばれ、クギの束が次々に積み上げられるのを見ている。
アキレスが彼に近づく。
アキレス:
狡猾なオデュッセウス、ついに羊が自ら狼を招き入れる方法を思いついたな。
オデュッセウス:
これは戦争だ。
アキレス:
アガメムノンはトロイ人を皆殺しにするだろう。男も女も子供も、全て。わかって いるはずだ。
アキレスは立ち去る。オデュッセウスは後を追う。
オデュッセウス:
私はイタカの王だ。トロイのじゃない。私はイタカに責任がある。
この計画がうまくいけば一晩で戦争が終わる。部下たちを家族のもとへ帰してやれるんだ。
アキレスは歩き続ける。オデュッセウスは同じ歩調で後に続く。
オデュッセウス:
きみが心配しているのはトロイの国のことじゃないだろう?一人だけ、たった一人のトロイ人の娘のことだ。
アキレスは立ち止まり、長い間彼を見つめる。
アキレス:
俺はいつでもあんたが好きだった。だが、あんたの計画のせいであの娘が死ぬようなことになれば、奥方のもとへは帰れないと思え。
アキレスは向き直り、立ち去る。オデュッセウスは深く息をつく。

−アキレスのテント
アキレスは自分のテントに辿り着く。エウドロスが彼の鎧を手入れしている。彼は主人のもとへ飛んでくる。
アキレス:
エウドロス、許してくれ。
エウドロスは驚く。いまだかつて誰もアキレスの口からこんな言葉を聞いた者はいなかったから。
アキレス:
殴ったりして悪かった。おまえは生涯通じての忠実な友なのに。
エウドロス:
二度と失望させません。
アキレス:
皆を起こせ。おまえが連れて帰国しろ。
エウドロス:
ご一緒にいらっしゃらないのですか?
アキレス:
俺にはもう一つ、やらねばならない戦いがある。
エウドロスは彼の主人を見ながら躊躇うが、ついに口にする。
エウドロス:
彼女は戦うに値する人です。私たちはあなたの後をついて行きます。
アキレス:
この先にあるのは虐殺だけだ。おまえたちが子供の血で汚れるのは見たくない。
行け、エウドロス。俺からおまえへの最後の命令だ。
長い沈黙の後、エウドロスは彼の司令官に深々と頭を下げる。
エウドロス:
あなたのために闘えたことは生涯の誇りです。
アキレスは彼の副官の肩をしっかりと掴み、大股に去って行く。

38
−監視塔−夜明け
12日後。
歩哨たちは配置された場所で、火鉢に手をかざして暖めている。空が明るみ始めている。
歩哨の一人が海を見下ろす。彼は監視塔の端へ走り、朝霧を透かし見ようとする。別の歩哨がそれを見て、仲間に加わる。
歩哨:やつらは行った。
本当である。ギリシア軍の船は全て海岸から消え失せている。全てのテントが引き払われ、全ての馬車が運び去られ、人間も誰一人として残っていない。
海岸にあるのは、木でできた奇妙な建造物だけである。

−海岸の宿営地
プリアモス、パリス、グラウコス、アルケプトレモス、そしてベリオールが馬に跨り、アポロ親衛隊を引き連れて海岸にやって来る。
兵士たちは敵の待ち伏せを警戒し、指導者たちを取り囲んで護衛している。トロイの指導者たちは馬を下りる。
彼らはゆっくりと40フィートの高さにそびえ立つ木の馬に近づく。
海岸に残っているのは、燃え尽きた船の骨組みと落ちたままになっている数本の矢、焚火の燃え残り、そして、砂の上に散らばる何十体ものギリシア人の遺体である。
どの遺体も大きな黒い斑点に覆われている。トロイ人たちは用心深く距離を置いて遺体を検分する。
プリアモス:
疫病だ。
グラウコス:
王よ、近づいてはなりません。
アルケプトレモス:
神のご意志です。
皆、神官長に注目する。
アルケプトレモス:
彼らがアポロ神殿を汚したからアポロは彼らの肉体を汚したのです。
ギリシア人は我々の剣と弓矢とは戦えましたが、神がもたらす災いとは戦えなかったのです。
グラウコスは首を振って、笑う。
グラウコス:
やつらは我々を一日で打ち負かせると思ってやって来た。だが、今やエーゲ海を逃げ帰っていく。
プリアモスは巨大な馬を見上げる。
プリアモス:
これは何だ?
アルケプトレモス:
ポセイドンへの捧げ物です。ギリシア人が無事に帰国できるよう祈ったのでしょう。
グラウコス:
願わくば、海神がやつらの貢ぎ物に唾をかけ、やつらを皆、海の底に沈めてしまいますように。
アルケプトレモス:
これは贈り物です。ポセイドンの神殿へ運びましょう。
その場の全員がそびえ立つ木馬を見上げる。
パリス:
燃やすべきだ。
ベリオール:
燃やす?王子よ、これは神への贈り物ですぞ。
グラウコス:
王子は正しい。もし充分な大きさの松明があれば、儂はギリシアの全てを焼き尽くしますぞ。
アルケプトレモス:
警告しますぞ、善良なる人々よ。侮辱する相手に気をつけなさい。
我らの愛するヘクトル王子は、神を批判した次の日にアキレスの剣に倒れたのです。
プリアモスは神官長を振り返る。
パリス:
(神官長を睨みつけ)父上、燃やしましょう。
アルケプトレモスはパリスを無視し、直接プリアモスに話しかける。
アルケプトレモス:
王よ、お許し下さい。無礼を働くつもりはありません。けれど、私はこれ以上、トロイの王子が神の怒りで不興を買うのは見たくないのです。
皆、プリアモスに注目する。彼はどっしりとした木馬を見つめる。
プリアモス:
もう一人の王子の死は見たくない。

−戦場
多数のトロイ兵が長いロープに繋がれた巨大な木馬を引いて、草深い平野を横切ってくる。

−トロイの城門
兵士たちは木馬を引いて城門を通り抜ける。トロイの市民たちは壁の上や街の中でそれを見ている。

−街の中央広場
木馬は今、広場の一角にあるポセイドン神殿の横に建つ三叉の矛を手にした海神像の近くに立っている。
広場は混み合い、歓喜に酔っている。兵士と市民が彼らの偉大な勝利を祝い、路上でワインを飲み、松明や国旗を振り、歌っている。
パリスとヘレンは宮殿の階段に座り、その様子を眺めている。
パリス:
見ろよ。まるで王子の死なんか無かったみたいだ。
ヘレンは彼の手をとる。
ヘレン:
彼らの王子はあなたよ。お兄様も誇りに思うわ。
彼女の言葉は、兄が死ぬ前に言ったことを彼に思い起こさせた。パリスは厳粛な面持ちで頷く。
ヘレンは彼の肩に頭を預ける。ふたりは路上の群集が歌う中で、黙って座っている。

−海岸の宿営地−夕暮れ
捨て犬が海岸に沿って走り、ギリシア人の遺体の一つ一つを嗅ぎ回っている。その中に見覚えのある男を見つけ、犬は死体の顔を舐める。その顔にあった斑点がきれいに舐め取られる。斑点はイカ墨と乾いた血で精妙に作られた偽物だった。

−ヘレスポント海峡の崖−夜
トロイの騎馬兵が南へ馬を走らせ、城塞から遠く離れた場所までやってくる。彼はヘレスポント海峡を望む。何かが目に入る。彼は眉をひそめ、崖の縁へ馬を向かわせる。
見下ろす海峡には、人気のない入り江に碇を下ろしている千隻近くのギリシア軍の船が月の光に照らし出されている。
騎乗兵はそれを見て震え上がる。

39
−街の中央広場
広場には今は誰もいない。酔って騒いでいた者たちも皆、家へ帰った。木馬は月明りの中で待っている。やがて奇妙なことが起こる。ロープが木馬の中から地面に下ろされる。
兵士たちが木馬の中から現れ、静かにロープを伝って地面に下りる。アキレス、オデュッセウス、他に10人のギリシア兵が。
ガチャガチャと音を立てて光る青銅の鎧は、誰も身に着けていない。彼らの槍と剣は仔羊の革で包まれている。
オデュッセウスはイタカ人の一団を率いて広場を横切っていく。彼らは影のように静かに城門を守る歩哨に忍び寄る。他の一団は監視塔へ向かって移動する。
アキレスはひとり暗い広場に立ち、同胞たちが死をもたらす任務へ向かうのを見ている。やがて彼は反対の方向へ、宮殿を目指して移動する。彼には別の使命があるのだ。

−城門
2人のイタカ兵が歩哨の喉を切り裂く。イタカ兵たちは城門の扉を上げるため鎖を牽引し始める。

−トロイの騎乗兵
城門に向かって駆けて来る。彼が来るのを見たギリシア兵は、指示を仰ごうとオデュセウスに目を向ける。まだいくらか離れた所にいる騎乗兵は、城門にいる人影に向かって叫ぶ。
騎乗兵:
やつらはまだここにいる!ギリシア軍はまだいるんだ!やつらはヘレスポント海峡で待機している!
オデュセウスは槍を放つ。槍は門の横木を通り抜け、騎乗兵の喉に突き刺さり、彼を馬から落とす。
馬は恐慌をきたし、走り去る。

−監視塔
歩哨の一人が物音を聞きつけ、目を覚ます。彼は覚束ない目を塔の縁に向けると、そこにギリシア兵の顔を見る。片手を梯子にかけたまま、ギリシア兵は歩哨を突き刺す。
別のギリシア兵が塔の中に這い入り、もう一人の歩哨を殺す。

−城門
ギリシア兵は城門を開いた。彼らは松明を振って合図する。暗闇の中を、何かが遠くから近づいてくる。
ギリシア軍が暗闇に紛れ、城塞を目指し、静かに全力疾走してくる。何千人もの戦士たちが音も立てず豹のように走る。
ダムを決壊させる水流のように、ギリシア兵たちは剣と槍を掲げ、城門に殺到する。

−トロイの宮殿
ブリセイスは欄干に近づき、海岸に目を向ける。彼女は青いローブを纏い、貝殻の首飾りを着けている。彼女は城門の物音を聞きつけ、振り返る。最も高い監視塔の上に翻るトロイの国旗が燃えて
いる。

−トロイの街
街の至る所でギリシア兵は奇襲をかける。歩哨を殺し、建物に火を点け、厩舎の扉を開け放ち、怯えた馬を路上へ追い立てる。
間もなく街は大混乱に陥る。炎は際限なく燃え広がり、路地から悲鳴が上がり、最初は数えるほどだったのが次第に至るところで聞こえるようになり、やがて街中が叫んでいるような様相となる。

−アキレス
燃え上がる街を、物陰から物陰へと走り抜ける。

40
−プリアモスの会議の広間
プリアモスはバルコニーに立ち、彼の美しい街が炎上するのを、彼の生涯をかけた仕事が破壊されるのを見ている。

−トロイ軍
トロイ兵たちは戦い始めるが、準備は整っていなかった。彼らの多くは武器を持っておらず、全員が脅えている。4人の兵士が武器庫へ走り、扉を開け放つ。彼らは中から爆発した熱風に叩きつけ
られる。武器庫にはすでに火が回り、炎は木の梁を渡した天井を舐め、棚に置かれた数千本の槍を貪り食う。

−トロイの市街
怯えた市民たちが寝巻きのまま路上をさ迷っている。母親は子供の手を握り締め、老女は燃える家から逃げ出す。
剣を抜いたアキレスが彼らに向かって走ってくるのを見て、女たちが悲鳴を上げるが、略奪は彼の目的からはかけ離れたものだ。

−宮殿の廊下
ブリセイスは宮殿の廊下を駆け抜ける。アーチ窓の外では街の白い建物が炎に包まれている。死に瀕した都市の悲鳴が聞こえる。

−中央広場
アガメムノンはトロイの真中心に、頭を後ろに反らし、大いなる喜びをもって炎上する街を見回しながら立っている。
アガメムノン:
弟よ、約束したな。
(彼の軍隊に叫ぶ)全て燃やせ!

−パリスの寝室
パリスは戦闘の用意を整えている。彼は弓と矢筒を掴む。ヘレンは彼を見ている。アンドロマケがスカマンドリウスを抱いて、部屋に入ってくる。
アンドロマケ:
逃げなければ。
ヘレン:
どこへ?
アンドロマケ:
案内するわ。
パリスはヘレンを見る。
ヘレン:
行きましょう、愛しい人。一緒に来て。

−トロイの市街
オデュッセウスはギリシア兵を率いて、十分な装備ができていないトロイ兵と戦いながら、道を開いていく。トロイ兵は抵抗するにはあまりにも呆然とした状態である。

−宮殿の庭
アンドロマケは赤ん坊を抱き、松明を掲げ、ヘレンとパリス、その他の女性や子供を連れて階段を下り、蔦が絡まる扉の前に来る。彼女は扉を開く。

−宮殿の地下
アンドロマケはトロイ人たちを青銅の横帯が渡された扉へと導く。彼女が扉を開けると、暗いトンネルが現れる。
アンドロマケ:
先は長いわ。
ヘレンとその他の人々がトンネルに入る。パリスは動かない。彼は扉のすぐ外側に立っている。
パリス:
僕は残る。
ヘレン:
だめ...
パリス:
父上は街を見捨てないだろう。置いてはいけないよ。
ヘレン:
街はもう終わりよ!焼け落ちようとしているわ!
パリスは寄せ集めの避難民たちに目を向ける。誰もがおどおどしていて、怯え、弱っている。アイネイアスだけが他の者より強く、勇気がありそうに見える。彼は年老いた父親を支えている。
パリス:
名前は?
アイネイアス:
アイネイアスです。
パリス:
剣は使えるか?
アイネイアスは頷く。パリスはトロイの剣を取り出す。
パリス:
トロイの剣だ。僕はこの剣には相応しくなかったが、素晴らしい剣なんだ。
この剣がトロイ人の手にある限り未来はある。皆を守れ、アイネイアス。
新しい故国を見つけてやってくれ。
アイネイアス:
約束します。
アンドロマケがパリスの腕に触れる。
アンドロマケ:
ブリセイスが部屋にいなかったの。
パリス:
僕が探す。
アンドロマケは彼にキスする。彼女は向きを変え、トンネルの中へ入っていく。トロイ人たちが後に続く。アイネイアスはパリスに頭を下げ、父親を助けて長い旅に発つ。
ヘレン:
あなたと一緒にいるわ。
パリスは彼女を扉へ、優しく押しやる。
パリス:
行くんだ。
ヘレン:
私を一人にしないで。お願い、一人にしないで。
パリス:
今逃げたら、どうやって僕を愛せる?
ヘレン:
お願い...
パリス:
僕たちは、きっとまた一緒になれる。この世でか次の世になるかはわからないけれど、きっと一緒になれる。
彼は彼女に激しく口づけし、彼女を扉の向こうへ押しやり、扉を閉める。彼は扉にキスし、向きを変え、戦闘へ向かって走り出す。

−トロイの宮殿−内部
ブリセイスは長い回廊を駆け下りる。外からは殺戮の悲鳴が聞こえる。
ブリセイス:
パリス?アンドロマケ?
ブリセイスの足が止まる。狂った目をし、口から泡を吹いた白い裸馬が角を曲がり、彼女に向かって暴走してくる。彼女は壁に背中を押し付ける。怯えた馬は彼女の前を通り過ぎる。

−トロイの宮殿−外
アキレス:
ブリセイス!ブリセイス!
アキレスは宮殿を取り囲む高い壁をよじ登り、内側に飛び降りる。アポロ親衛隊士がそれを見つける。
護衛兵は突進する。アキレスは剣の柄を彼の顔に打ちつける。護衛兵は倒れる。アキレスは彼を掴んで足元に押さえつけ、喉に剣を当てる。
アキレス:
ブリセイス。彼女はどこだ?
(大声で)どこにいる!?
護衛兵:
わかりません。お願いです、私には息子がいるんです。
アキレスは彼を突き放す。
アキレス:
息子を街から連れ出せ。
護衛兵は自分が生きていること呆然としていたが、やがて走り去る。
アキレスは宮殿の中へと急ぐ。

−宮殿の階段
オデュッセウスと部下たちは宮殿へ続く階段を、戦いながら上がっていく。トロイ兵は英雄的に抗戦し、英雄的に戦死する。アガメムノンは彼の軍隊の後ろに立ち、吠えるような声で命令を下す。
アガメムノン:
一人も逃すな!皆殺しにしろ!

41
−宮殿−玄関の広間
外からは悲鳴と戦闘の雄叫びが聞こえてくる。グラウコスは50人の部下たちと最後の防衛線に立っている。グラウコスは兵士たちの列に沿って歩き、全員の手を握る。
グラウコス:
黄泉の川の渡し人が我々を待っている。もう少しだけ待たせてやろうじゃないか!
兵士たちが雄叫びを上げたその時、ギリシア兵が広間になだれ込んでくる。

−トロイ兵
攻勢に出る。束の間、彼らはギリシア兵を押し返す。パリスは矢を放つ。ギリシア兵がその矢で喉を射抜かれ、倒れる。
だが、あまりにも多数のギリシア兵が扉の向こうから殺到してくる。トロイ兵は勇敢に戦い、中でもパリスは素早く正確に矢を射続ける。
オデュッセウスはグラウコスと剣を交え、素早く老将軍を殺す。生き残ったトロイ兵は宮殿の奥へ撤退する。

−会議の広間
何十人ものギリシア兵が会議の広間になだれ込み、運び出せる財宝は全て略奪し、運べないものは全て打ち壊す。
プリアモス王は剣を携え、広間へ走る。彼は2人のギリシア兵が壁の燭台から黄金の小像を掴み出すのを見る。彼は剣を振り上げる。
プリアモス:
畏れはないのか?神を敬っていないのか?
プリアモスは足を踏み出す前に、背中から槍に貫かれる。槍の刃先は彼の背を引き裂き、胸から突き出る。彼は倒れる。アガメムノンが彼を見下ろして立っている。アガメムノンは槍を引き抜く。
アガメムノン:
あんたには生きていてほしいぞ、ご老体。生きて、あんたの街が焼き尽く されるのを見てほしいのだ。
プリアモス:
お願いだ、子供たちだけは...何の罪もない者たちは助けてやってくれ...
アガメムノン:
誰が罪のない者かは黄泉の神に決めてもらおう。
死にゆく老人をひとり床の上に残し、アガメムノンは立ち去る。

−ゼウス神殿
アルケプトレモスはゼウス像の前に跪いている。ギリシア兵の一団が迫ってくると、彼は立ち上がる。
アルケプトレモス:
気をつけなさい、友よ。私は神に仕える身だ。
兵士の一人が彼を斬り倒し、その死体を欄干から投げ捨てる。

−宮殿の庭
ブリセイスは誰か知り合いはいないかと宮殿の庭へ駆け込む。誰もいない。彼女は下層の庭へ走る。
彼女は、プリアモスの血に汚れたアガメムノンが燃え上がる宮殿のアーチ窓に立ち、自分を見ていることに気づいていない。

−宮殿の廊下
アキレスは通り過ぎていく怯えた女たちの顔を確かめながら、炎と煙をものともせずに宮殿の廊下を全力で走る。
アキレス:
ブリセイス!ブリセイス!

−宮殿の庭
ブリセイスは周囲の地獄絵図が目に入らないかのようにアポロ像に祈っている。
アガメムノン:
巫女よ、祈るには遅すぎたな。
ブリセイスは目を向けない。アガメムノンは彼女の長い髪を掴み上げて立たせ、喉に剣を当てる。
2人の護衛が後ろに控えている。
アガメムノン:
おまえの親は王への礼儀を教えなかったらしいな。
ブリセイス:
教えてくれたわ。
アガメムノン:
最後に見た時は白装束だったが、もう着ないのか?勇者アキレスに堕落させられたか。
ブリセイスは彼を見ようともせず答えもしない。彼は彼女の服を引っ張る。
アガメムノン:
おまえたちのつまらぬ恋のせいでこの戦が危うくなるところだった。
アキレスが味わったものを儂も味わわせてもらうぞ。

−宮殿
アキレスはトロイ兵の死体の中を走りながら、神殿のアーチの向こうに、アガメムノンの手の中にあるブリセイスを見つける。彼は急いで外へ出る。

−宮殿の庭
アガメムノン:
ミュケナイで儂の奴隷になってもらおう。トロイの巫女が昼間は宮殿の床を磨き、夜には...
アガメムノンは彼女の服を引き裂く。ブリセイスは袖から手を出す。彼女の手には儀式用の短剣が握られている。
彼女は短剣をアガメムノンの首の横に突き立てる。彼の目は大きく見開かれる。彼女は短剣をさらに深く差し込む。アガメムノンは喉を押さえながら、地面に倒れる。
42
護衛兵たちは信じられない面持ちで瀕死の王を見ている。ブリセイスは逃げる。護衛兵は彼女を追う。
ブリセイスは脚をもつらせ転ぶ。彼女は背後を振り返る。護衛の一人が剣を抜き、彼女を真っ二つにしようと迫る。
彼が剣を振り下ろす前に彼の首は肩から離れて飛ぶ。彼が倒れるより早くアキレスはもう一人の護衛に襲いかかる。

−宮殿
パリスが弓を手に神殿の中庭に現れる。彼はアーチの向こうに、兄を殺した男が血まみれの剣を手にしてブリセイスの側に立っているのを見る。

−宮殿の庭
アキレスは血に染まったアガメムノンの死体が数歩先に転がっているのを見る。彼はブリセイスに向き直る。
アキレス:
一緒に行こう。
ブリセイスは答えるより前に大きく目を見開く。彼女はパリスが矢をつがえて上の庭にいるのを見たのだ。
アキレス:
行こう。俺がきみを守る。
パリスが弓の弦を引き絞る。ブリセイスは叫ぶ。
ブリセイス:
やめて!
パリスは矢を放つ。ブリセイスの叫び声に気をとられて矢は急所を外れ、アキレスの踵に命中し、腱を貫いた。アキレスはよろめいて振り返り、パリスを見る。
アキレスは唸り、彼に向かって進む。パリスは再び矢を放つ。アキレスは避けようとするが、踵の腱が裂けているため動きが鈍る。矢は彼の脇腹を引き裂く。
アキレスは片足を引きずりながら前へ進む。
ブリセイス:
やめて!パリス、やめて!
パリスは再び矢を放つ。アキレスはもはや避けようともしない。矢は彼の胸に深く沈む。
アキレスは前進し続ける。彼はこれが自分の最期だと知っている。微かな笑みが彼の顔に浮かぶ。
彼は生涯を通じてこの瞬間を待っていたのだ。彼は自らの運命に向かって歩き続ける。
パリスは再び矢をつがえる。彼の手は震えているが、矢は放たれる。その矢はアキレスの腹を深々と抉る。
ブリセイス:
やめて!
アキレスは前進し続ける。パリスはさらに矢に手を伸ばす。矢筒は空になっている。彼の剣はアイネイアスに渡してしまった。
宮殿は燃え続け、その炎が彼らの顔を照らし出す。アキレスの傷からは血が流れ出し、身体からは矢の柄が突き出している。他の男ならとうに死んでいるはずなのに、彼は容赦なく前進し続け、
その顔は残忍な目的に覆われている。
ブリセイスはパリスの前へ滑り込み、身体を楯にして彼を庇う。アキレスは血まみれの剣を振り上げる。
ブリセイス:
もうやめて。
ブリセイスは動かない。数秒の間、偉大な戦士と年若い少女は互いに見つめ合う。
ブリセイス:
これ以上殺さないで。
アキレスは大儀そうに剣を下ろし、刀身を庭の地面に突き立てる。
アキレス:
もうやめよう。
彼は手を伸ばし、ブリセイスの首飾りの貝殻に触れる。
アキレス:
母が作った首飾りだ。
彼は芝生に沈むように座り込み、身体に刺さった矢を引き抜き、投げ捨てる。ブリセイスは彼の側に座り、その腕に彼の頭を抱く。二人の周りでトロイの全てが燃えている。
アキレス:
きみは逃げなければ。
ブリセイス:
しー。
アキレス:
逃げろ。
彼女は彼の唇に口づけし、顎に指を這わせる。
ブリセイス:
逃げ道なんてないわ。
アキレスはパリスに目を向ける。
アキレス:
王子は抜け道を知っているはずだ。
パリスはブリセイスを立ち上がらせようとするが、彼女は動かない。
アキレス:
ブリセイス。
彼女は顔を寄せる。アキレスは大量の血を失い、気力が萎えようとしているが、最後の力を振り絞って彼女に語りかける。
アキレス:
俺は夜を選んだ。だが、きみはもう一度太陽を見るんだ。生きてくれ。
彼女の顔は悲しみと愛情でいっぱいになる。彼の身体は衰弱し、震える指で彼女の唇に触れる。
彼女は彼に口づけする。
アキレス:
生きろ。
それでも行こうとしない彼女を彼はそっと押しやる。ついに彼女は頷く。
ブリセイス:
あなたのために。
彼女はパリスの後を追い、抜け道の階段を下りていく。アキレスは彼女が無事に抜け道に姿を消すまで一心に見守る。彼は深く息をつき、目を閉じる。
荒れ狂うギリシア兵の群れが嵐のように迫ってくる。燃えるものはすべて燃やし、彼らは勝利の雄叫びを上げている。
アキレスはひとり庭に座り、寒さに震え、我が身を抱きしめながら待っている。

43
−トロイの中央広場−夜明け
ギリシア人は勝利に酔う。美しいトロイの街は滅びた。トロイ人の捕虜たちは鎖に繋がれ、ギリシア兵たちは贅を尽くした神殿や宮殿から黄金の財宝を運び出す。
火葬の積み薪が広場を埋める。一つの積み薪は他のどれよりも高く、広場の中央にそびえ立っている。その頂上にはオデュッセウスが立ち、アキレスの遺体を見つめている。
長い間、オデュッセウスはその死に顔を眺めている。彼は、もう二度とこの世界のどこにもアキレスのような男が現れないことを知っている。やがて彼は硬貨を取り出し、アキレスの目の上に置く。
オデュッセウス:
安らかに眠れ、兄弟。
オデュッセウスは薪の山を降り、副官が手渡した松明で火を点ける。乾いた木はすぐに燃え始め、黒い煙が上空に輪を描いて飛ぶカラスへ向かって上っていく。
オデュッセウスは友が燃えるのを見ている。

44
−スカマンデル川
トロイ人の小さな一団が昇る太陽に向かって東へ歩いている。ヘレンとパリス、アンドロマケとスカマンドリウス、アイネイアス、その他のトロイ人たち、皆生きている。彼らはイダ山を目指して歩く。
ブリセイスは他の皆の後を歩いている。彼女は少しの間立ち止まり、トロイの滅びた街を振り返る。
彼女の目に、遠ざかっていく街にそびえ立つアキレスの火葬の積み薪から立ち上る黒煙が、カラスの群れを抜け、ついには深く青い空に吸い込まれていくのが映る。

END
 
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