■映画「トロイ」考察■>雑談>脚本家ディヴィット・ベニオフについて

■映画「トロイ」考察■>雑談>脚本家ディヴィット・ベニオフについて

映画「トロイ」に関しての小話■脚本家ディヴィット・ベニオフについて

25時 ここまで読んでいただけたなら、私たちが如何に脚本にやられているかがわかると思います。
本当にどんなベテラン脚本家だ?今までどんな映画の脚本を書いていたのだ?今までぼぅっと見ていた映画の中にこの脚本家の作品はあったのか?と思ってパンフレットを読みました。書き物業は小説家から始まって自分の小説『25時』の脚本を手がけ、それが高い評価を得て「トロイ」が二本目…。この仕事を受けたときはキャリア二年目位じゃないでしょうか。まだまだ新人、この若さ(1970年生)でこの実力。二本目でこんな超大作の脚本。そして監督、キャストがこの脚本を大絶賛です。

ああ新人でよかった。『25時』を観ただけで補填が済みました。

私アホですのでベニオフのコメントが欲しいばかりに「eiga.book」を購入しました。ええアホです。俳優の為に本を買ったことはありますが脚本家の為に雑誌買う人もそういまい。
ほんの1Pですが、彼の映画に賭ける姿勢がちょっとだけ分かりました。

「僕は映画を愛している。映画よりももっと映画の可能性を愛している。映画館の席に座って照明が暗くなってスクリーンに映像が映し出されるたびにドキドキするんだ。これまで100回のうち95回は失望しているというのにね。映画の”物語を語る力”は日々増大していると思う。だけどひどい脚本が少なくない。なぜだ?どうしてスタジオはバカみたいなセリフの脚本の特殊効果映画に2億ドルの制作費を投入するんだろう」
ここから私たちが汲み取った彼の意図は
映画そのものが好き
しかし100本見て95本はつまらないと感じる(勝率悪すぎ)
映画を脚本の視点から観ている(作家ですから当たり前か)
大作系の脚本はたいていつまらないと思っている

師匠がこのコメントを見て「こんな映画の見方をする人の脚本が一般に受け入れられる筈がない」といっておりました。95%の作品をつまらないとジャッジするということは世間の人とは違う見方をしている人に違いない、と。

彼は別のコメントではこう述べています。

「”作家は自分が知っていることしか書けない”という通説は”作家は自分が体験したことしか書けない”という意味じゃない。僕はフィクションの魅力は想像力にあると思ってる。(中略)僕らはメネラウスと同じ、恐れや愛、憎しみや欲望を経験したことがある。周囲の状況がまったく変わっているとしても「イリアス」で描かれている人間の基本的な感情は真実だと思うんだ。」
彼の初長編小説にして初脚本の『25時』は主人公が刑務所に服役する前日のお話です。
実際の刑務所というものは映像として一切出てきません。「想像としての刑務所」か「過去に入った刑務所」について語るのみです。ベニオフだって、刑務所に入ったことはないでしょう。それでもこの作品ほど「刑務所に入りたくない」と強く思ったことはありません。

〔ラストの展開には感動しました。それは私たちが「この展開なら男は女と寝るのは当然だ」とか「お婆ちゃんが死んだら哀しいのは当然だ」と思うように「肉親なら息子が刑務所に入ることを拒むことは当然だ」と分かっているつもりだった感情に、その選択をしないことによる哀しみを描き、恐ろしいほどに説得力のある理由を突きつける。
構成も秀逸です。これこそ彼の言う「映画の”物語を語る力”」だ、と。これだけは小説ではなく映画=映像でなければ出来ない表現だと痛感しました。〕

彼の脚本の書き方は「想像力の分け与え」だと思う。
同じ現在生きている人同士でも分からないことが多いのに、3200年前の人物のことなど現代の私たちに分かるはずもない、しかし彼はそれを想像力で補う。昔の様々なキャラクターの感情を今の感情を同じと捉え、その補った部分を上手くセリフに埋め込み私たちに伝えてくる。

昔の人だからって今とまったく違う考え方をしているとは思わない。
過去にキリスト教迫害だとか魔女狩りだとか平和な今(というよりも日本)からしたら惨いことをした時代もあった。それだとて当時はそれがまかり通った理由があった。それが当時の彼らの正義だった。ユダヤ人迫害をしていたドイツ軍に悪をなしているという実感はなかったはず。ドイツ人は優れている、ユダヤ人は劣っている(これだってユダヤ人が裕福だというやっかみが原因です)統一国家を作り上げる、と言う理念に燃えていただけです。

何度もしつこく書きますが兄弟王子の船上のシーン。ここは本当に優れていると思う。単純に「敵国の女王を奪ったこと」を怒るのではなく、理由が実に明確に示されている。

私たちはそれぞれ違う人間です。統一の意見などあるはずはない。ゆえに私たちは語り合う。意見のすりあわせをするために。もちろんそれでお互いの意見がまったく一緒になることはないでしょう。それでもしないよりもましです。

彼はこの小説の中のあるキャラクターの口を借りてこんな事を言っています。学校の先生に女子高生が何故自分の作文の成績がBプラスなのか、と噛み付くという場面設定です。【新潮文庫「25時」48P】

「と言うことは、新しいことはするなってことね。実験はやめろってことね?」

「だって、先生が期待したこと以外のことを書くと、罰せられるってことでしょ?」

「ヴィンスはお祖母ちゃんが死んだ話を書いてAだった。つまりあたしが言いたいのは――先生は彼を可哀そうに思ったってこと。でしょ?あれっていわばお情けのAなんでしょ?みんなよくお祖母ちゃんが死んだ話を書く。それって何でだか知ってる?くそ悲しいからじゃない。Aが保証されているからよ。(中略)なのに先生は馬鹿みたいに感傷的になって”ああヴィンスなんと力強い文なんだ。なんと感動的なんだ”なんて思ったわけ。ほんとはそうじゃないのに。お祖母ちゃんが死んだって、あたしなんか全然気にならなかったもん。先生もそうだったんじゃない?誰だってそうよ。だって、それがお祖母ちゃんのすることじゃないの、お祖母ちゃんって死ぬもんでしょうか。でも、孫にそのことを作文に書かれちゃったら、先生としてはAをつけざるをえない。そういうことでしょ?」

私ここを読んだとき、大うけしました。素敵、ベニオフやられるわ。
これは高校生が作文の評価に対する不満という形をとりながら、明らかに現在の小説や脚本に対する痛切な批判です。お葬式を書くだけで「悲しかったんだねえ」と勝手に解釈してもらえることを期待する書き手と、その期待通りに評価する評論家に対する。

99999(ナインズ) これを恋愛映画に置き換えると、彼のコメントを借りるのならば95本は…それだけで「愛って素晴らしい」「こんな恋愛してみたい」という評価が付きます。何故?「愛することに理由なんてない」から。これって素敵な言葉のように思われますが、書き物を仕事とするならば根拠にもならない根拠。心理学の論文に推測や引用、実験結果を添付せずに発表しているようなものです。彼にとってはそれでは作文=脚本とはいえないのでしょう。それを描いてこそ、作家自らの想像による根拠を読者に提示し読者に共感させることが作家の評価に結び付けて欲しい、そう思っているのでしょう。
彼はそれを脚本で意見を述べてくる。私たちはそれを受け止める。そして納得をする。そういうことです。

 
考察一覧