■ジャパネスクとヨーロッパの気質
先に「ラストサムライ」のような話だと聞いていたので、その点に注視してみました。
やはり日本人が考えるのとは違う独特な日本。
ですがとにかく分析し体験することで理解しようと試みる「ラストサムライ」とは大きく異なり、不思議なものは不思議なまま、存在するものをそのままあるがままに受け入れる。頭で理解するのではなく、心で納得する。
日本のシーンは一種ファンタジック、不思議な「桃源郷」のよう。
これはヨーロッパ圏(またはフランス)の特異性でしょうか。
ヨーロッパ圏の映画作品は総じて饒舌でないというか語らな過ぎて、理屈先行・理論整然と語られるようなストーリーを好む私にはどうにも物足りなさを感じてしまいます。
ですが彼らは、自己と他者の間の差異に理屈をつけなくても、「そういうものだ」と平準化することでバランスを取ることが出来る。
そう仮定すればあえて説明することが不要と考える道理も納得が行きます。
「シルク」は日本に限らず全ての情景が(私の苦手とする)情調先行型で曖昧な雰囲気ですが、映像の美しさと音楽の調和がすばらしく心地よく鑑賞することができました。
音楽といわず音全般、効果音が実に美しい。衣擦れ、水面に落ちる雫、茶器の擦れあう「チリリ…」という音。
多少(?)のおかしな御茶の作法などは気にならないほど(嘘です…気になる)耳に美しい音です。
■ジェンダー、或いは「男心と女心」(以下非常にネタバレ)
…さて、この物語は相思相愛の末に結婚した新妻のいる身でありながら、異国の不思議な女に心奪われた一人の男が主人公です。
将来「共に老いる」と誓った伴侶エレーヌが故郷で待っていることを承知で、ついその場の雰囲気に呑まれて魅力的な少女に惹かれてしまう。
妻エレーヌは愛しているエルヴェの心が遥か遠い国を求め、さらにそこに女性の存在があることを感じ取り、思い悩みます。
エルヴェはフランスに戻って愛妻と過ごしていてもかの少女を忘れることが出来ず、二度三度と危険を顧みず日本へ足を運ぶ。
三度目の訪日で蚕の卵の買い付けに失敗。さらに少女との縁を断ち切られ、さらに日本語で綴られた恋文のような縁切り状が届いたことでエルヴェの人生は平静を取り戻したかのように思われたのですが…。
私にはエレーヌの心境は理解できます。
生涯を誓った男性が他の女性に心奪われたことに怒りよりも悲しみを覚え、かの女性に嫉妬し、かりそめでもその女性になりたいと願う気持ち。
日本語の手紙は「例え肉体的にはそうでなくとも、精神的には同じように強い結びつきを持っているのよ」という少女の恋心を切々と綴っているようにとれます。
しかしこの手紙の主がエレーヌだと明かされた瞬間にこの内容は意味合いを変えます。彼女は異国の見知らぬ女性になりかわり、おそらくそうであったのだろうと考えて語りながら、エルヴェを深く愛していることを吐露しているのです。
その事実が判明した時にエルヴェは「あの少女はエレーヌ自身だった」と告白します。
………わからない。
私にはエルヴェの気持ちがわかりません(苦)。
右も左もわからない国で美しい少女に出逢う。彼女にエレーヌとの共通点を見出し心惹かれる。そういうことも有るでしょう。
でもフランスで妻の傍らにいながら、何故「本物のエレーヌ」から離れてまで「本物ではないエレーヌ」のもとに行こうとするのか。どうしてエレーヌを愛しているというのなら彼女を傷つけるようなことをするのか。
最初の訪日を「戦争よりはまし」と快く送り出してくれたので容認していると解釈したのか。または「女性の影」を気取られていないと考えたのか…
この作品を観ると「男性の心理は不思議」と思います。
中盤で行方知れずになった男性(名前忘れた)といい、難易度の高いショットを成功させたことで町を離れるバルダビューといい、会話で語られるひたすらまっすぐな鉄道(道だったか?)を作った男性といい。「何故そうするのか?」が詳細に語られることは無い。(こういう茫漠としたところがフランス映画は煮え切らなくて苦手なんだよ〜)
「理由などはやがて忘れ去られ最終的には結果のみが残るもの」だから動機などは取るに足らないものだと言わんばかり。
何故そうするのかをもっとよく考えて、その結果について思案して行動すればいいのに。
長い時間を過ごすことも叶わず、妻の墓前で涙するのなら。
永遠と言う世できっと彼女は寂しく微笑んでいることでしょう。