イズ・エー(いずえー)

キャッチコピー:
息子を裁くのは、父親の役目です。

ストーリー

渋谷で大量の死者を出す無差別爆破事件が発生する。犯人は“ホーリー・ナイト”と名乗り、マスコミによってカリスマ的存在となる。ところが、捕まったのはわずか14歳の中学生だった…。少年法の規定により4年で出所する加害少年。そんな少年の前に一人の刑事・三村が姿を現わす。彼は事件で妻子を失っていた。少年の出所を知った三村はある確信を持って行動に出る。一方、少年の父親も少年の更生を信じて、事件で離ればなれになった家族の再生を願い行動する。やがて2人の父親は、出所した少年をめぐって対峙するのだったが…。

レビュー

お薦め度:★★☆
不満は色々ありますが、これをきっかけに少年法について調べると言う行為に至ったのだから、その点では評価するべき作品なのでしょうかね…。

■少年法(法律の観点)
この作品は事件から四年が経過しているようです。四年といっても事件発生・捜査・検挙・諸手続きを加味すればもっと短い。作品で指摘されている死亡者が四人、おそらくそれ以上いるのでしょう。
これほどの凶悪犯罪と言うことを考えればかなり厳格な更生プログラムが組まれてしかるべし。そんな短い期間で少年院から出てこれるのか疑問です。

被害者の刑事が事件の捜査に加わっていたことも疑問です。事件の被害者とかかわりのある捜査員は事件から外される、というのがドラマ等でよくあるパターンです。感情的になり、思い込みで行動したり冷静な判断が下せなくなることが推測されるのですから当然です。なのになぜこの事件では事件被害者本人の刑事が少年を逮捕する第一線にいたのか?

また検挙されるために密告があったことなどがわかります。冒頭の殺人事件で、仮にA少年の話が頭に無かったとしても、被害者の身元が判明した時点で過去の事件との関連性も調査されるでしょう。警察で調書をとった事実もあるはずです。それ以前の問題でAが出所してくることで報復行動に出る可能性がゼロではない以上、警察も何らかの保護措置を取るべきだったと思います。

■加害者側の父親・被害者側の父親
父親であり、教師・刑事という立場。事件さえなければ同じような価値観であっただろう二人が、被害者・加害者(の家族)になることで人生が大きく変わる。
この点をもっと明確に引き立てて描写していけばこの作品は良くなったと思うのですけれど。

加害者の父親は事件後教職を去ることで教育の観点で語る資格を失い、被害者の父親は身を持ち崩して罪を憎む警察ではなく犯人を憎むだけの人間に成り下がり、そのことに何の迷いも無い。

■加害者家族
疑問なのは母親とその娘ですね。父親が古びたアパートに住んでいるのに、別居でしかも事件前と同じ自宅に二人で住んでいるのがピンときません。まず父親の転職で収入が激減していること、いくら少年犯罪が匿名報道とはいえ学校区内に噂は知れ渡ることでしょう、その是非はともかくとして誹謗中傷は凄まじかったと思います。
そのような場所で女性二人で住むことなんて怖くて出来るとは思えません。

実際息子の友人という胡散臭い男が暴れまわっても誰も通報しない。当事者本人は自分達が加害者の身内だという負い目から来ているのでは?という推測を立てることはできますがの詳細な描写もありません。

■子供を裁くのは、親の役目?
私には「息子を裁くのは、父親の役目です。」というキャッチコピーの意図がわかりません。
子供の精神育成に親の育て方が大きく関与していることは認めることです。ですが作中で十四年の経緯(加えて四年の少年院)が説明されることが無いので、何故少年が犯罪に走る思想に陥ったか、その思想を押さえることが出来なかったのか、更生されなかったのかがまったく分からない。
原因所在が不明であるのに、責任追及ばかりが先走る。

犯罪を犯す心理は分からないのに、事件を犯した後に何処に行くかは分かると言う。(…で実際そこにいるのも笑えるが)
親だから子供の考えていることが理解できる、理解していて当然という思想は薄気味悪いと感じます。例を挙げれば、苛められているのに故親に何も話さない子供が多い現実を理解できない大人は多い。
理解していると言う思い込みが無理解を産んでいるのかもしれない。

■Aという存在を作品から見る
「童のときは 語ることも童のごとく 思うことも童のごとく 論ずることも童のごとくなりしが 人と成りては童のことを棄てたり。 今、我ら、鏡持て見るごとく、見るところ、おぼろなり」

is A のAとは実名報道を規制される少年に与えられる仮名。(多分)
私はもっとこのAという名前に実在感を与えてくれるものかと思ったのですが…映画の中のAはAであってそれ以上でもそれ以下でもない、それこそマスコミが期待するようなモンスターのような存在でした。
報道ではAであっても、齢十四歳でもアルファベット26通りにしか分類されないわけではなし、ましてや犯罪を犯す少年が必ず「カテゴリA」なわけじゃない。「わからない」「結局化け物」としか「少年」を描くことが出来ないのなら少年犯罪映画を作る意味とは?
海津勇也=Aであり、ホーリー・ナイト=Aであっても海津勇也とホーリー・ナイトを結びつけるイコールを見出せない。

子供はピュアで無垢で清らかだという妄想は捨てた方が良い。
また社会が子供とはそういう生き物だという固定観念を敏感に察知して子供ぶる子供もいるし、何にも縛られず・社会の規範も善悪の判断も付かないが故に驚くほど残酷な行為を行うこともある。
この場合の善悪とは感情的な善悪であって、法律的善悪ではないということは注意しておきたい。Aだって、爆弾を仕掛けることが法律で罰せられないことではないと思っているわけではない。

自称ホーリー・ナイトが綴る詩は、多少なりと哲学や文学に溺れた人間なら誰しもが夢想するような退廃的な思想であり、実際私の周囲には「三十歳になったら自殺する!」と豪語するような友人もいた。(○ちゃーん、元気かな〜?)
周囲の人間は皆愚かだ、こんな腐った世界は粛清すべきだ、自分が選ばれた人間だ…

今となれば分かる。周囲が愚かなのではなく自分が無理解であったことに。肺炎になって初めて普通に呼吸できることのありがたさを理解できる。「ティーン≒青春」という微量の毒を含む空気を意識しないと吸うことが出来ないから、無自覚に呼吸をする人たちが羨ましく、疎ましかった。だから負け惜しみの様に呪文の様に唱えていたことを。

今なら理解できる、でもそのときは本心からそう考えていたし、当時の私にいくら説得しても理解できないと思う。

■まとめ
犯罪を犯した子供と縁を切る、庇護していく、処罰する、また復讐する、自殺する、酒に逃げる…どのような選択をするにせよ何か理由やそこにいたる思考ルーチンが存在するはず。
ですがこの作品はそういったもう一歩踏み込んだ描写がされていないので、「なぜこの人が迷いながらこの行動を取ったのか」まったくわかりません。
この作品は、被害者の立場・加害者の立場・少年法・親、教育の立場…とどの点に対しても中途半端で描ききれていないように感じます。2003年制作ということで今よりも法律も整備されていなかったのかもしれませんし、また資料もなかったのかもしれませんが。
もっとしっかりした構成にするか、テーマを一つに絞るかどちらかにして欲しかった。
「少年の犯した犯罪って難しいね」とだけ言いたい作品はちょっとごめんこうむりたい。

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