まずは褒めるところを。
『マリー・アントワネット』と同じ時代を描いていますがその捉え方はとても対照的で、現代から見た当時の中世の異質な部分を的確に表現しています。綺麗に着飾っているはずの官僚ですら不自然なほど白塗りの顔と頬紅、ほつれかかった巻き髪のカツラといったいでたちですから、主人公のジャン・バティスト・グルヌイユが生活を送った最下層の市民の生活は言わずと知れたこと。猥雑で不潔、刺激臭が立ち込めていそう…臭いが表現できない映画作品でここまでやれば合格でしょう。
粗筋を読んだ時はもしかして殺人をパリで繰り返すのか?それは随分はしょりすぎ、と思っていましたが、話の大筋は原作に忠実に進展していきました。流石に長い物語ですので主人公のアイデンティティや周囲との距離感を示す細かいエピソードや描写は省かれていたものの、この物語の中心となる「香り」に関する補強付けのエピソード(【娼婦の犬や、彼に対しての接し方が急に柔らかくなる兄弟子など】)は上手く加味されていると感じました。
次にガッカリした点を。
「香り」を「音楽」で表現という点に大変な関心を持って鑑賞に望んだのですが中途半端な印象でした。映画のスコアとしては正しい意味での「効果音」や「感情の高まり」、「盛り上げ」としての「音楽」と、「香り」を表現するための「音楽」が入り混じってしまい、今は一体何を表現しての音楽なのだろうかと戸惑う時がありました。
序盤で彼が制作したオリジナルの香水をひと嗅ぎしたときの様に、周囲が花や光で満ち溢れ美女が愛を囁く…といった「夢幻」のような表現で通しても良かったような気がします。
究極の香水の素材を集める過程で、一人一人の女性の香り(音楽)は美しいがシンプル、でも調合した究極の香りが圧倒的な(それこそ私が好きな合唱のような)音楽であって欲しかったのです。誰もがひれ伏した時の音楽は素晴らしいには違いないのですが…。
香水というものはこの映画作品中でも確かに述べられるように、シンプルな香油を十数種類・微妙な配合で調合するもの。まさに音楽で言うならば単体でも素晴らしい楽器の調べがフルオーケストラになると相乗効果で素晴らしい感動が得られることと同義だと考えていただけに肩透かしでした。
以下ネタバレ
そして究極の香水を作る動機がラブとはなあ…
本当は原作と映画を比較するようなことは私の本意ではないのですが。原作では序盤からグルヌイユににおいがないことを明かされていたし(故に周囲の人からなんとなく奇異の存在となる)本人もその自覚があったからこそ様々な体臭を作り出すということを繰り返していたのであって、自分の価値基準向上ために究極の香水を創造したのではないのです。
彼を「究極の香水」に駆り立てた動機は明確には明かされず、芸術家として「究極の何かを創造する」ということに執着したためといった印象だったのです。私はそういったクリエイティブな人間が常人には決して理解することの出来ない域、それこそ損得勘定も善悪も倫理観も超越したもの…だと思っていたので落胆は大きかったです。
ある画家は自らの望む「赤」を作り出すために自分の血を絵の具に混ぜるそうですが、それに近い発想かな。
でも映画でこの物語に触れた人には好きな人の香りを再現したい、常に携帯したい、身にまといたい、という欲望、そしてその目的を達成しても矢張り普通の愛を得ることが出来なかった失望がしっくりくるのでしょうか。
普段は原作先読みすることは避けてきたのですが、今回も回避するべきだったと後悔しきりの作品です。