具体的な説明は一切なく、何処から連れて来られたのかそして何処に連れて行かれるのか。何も判らないだれも知らない少女達だけの閉鎖された空間。
新入生として連れてこられたイリスが体験する一年を中心に、この学園での生活が綴られていきます。緑深き自然の中で厳しい規律に束縛(あるいは庇護か?)されながら少女達は成長していく。
この閉鎖された空間から離れていくことになる三人の少女が描かれます。
一人は入ってきたばかりで外の世界を忘れることが出来ずに鳥かごの扉をこじ開けて飛び立っていく。一人は唯一のチャンスに賭け、それが叶わないと知るやそのバイタリティに任せて逃げ出していく。最後の一人は静かで美しい、完璧な庇護の下から外れることに恐れおののく。三者三様の価値観・結末。
永遠に続くような美しいユートピアにもいつかは別れを告げなくていけないときがある。セクシャリティなものに対する関心。成長し大人になることの憧れや、恐れ。男性が「ピータパン症候群」というのなら女性は「アリス症候群」とでも命名すればいいのか(ちょっと違うな)。
特にこの作品の最後を飾る最年長のビアンカの描かれ方には興味をひかれます。
【私には毎日夜な夜な蝶の装いをして観客に(決して上手いとは言えない)バレエを披露するところに、とてつもないエロティシズムを感じました。あの様な演目に毎日毎日観客が訪れ、学園が運営されるほどの収益が見込めるとは到底考えることが出来ず、何か特殊な嗜好を持ったブルジョアたちの秘密クラブのような印象が拭えません。全編における蝶の描き方も同様で、女の子から女性に変容する象徴のような、はかないその美しさを永遠に閉じ込めておきたいとでも言うような女性教師たちのコレクションに毒のようなものを感じます。】
こういう叙情的な映画って卑怯だよなあと常々思うのです。
こと映画に関して解釈は観客に委ねるという作品は、観る人を突き放した冷徹さと同時に己に対する甘さを感じます。この作品を芸術と感じる人はそれでよし。そうではない人間は「この芸術を解さない者」として排除される。
この映画にインスパイアされた人形の写真集が作られていますが、映画の中に人形は一体たりと存在しない。何故ならば少女達そのものが意のままにされる人形だからです。
そのような箱庭のような状況を求めて止まない嗜好の人間もいる、でもそれを行うことは犯罪に等しい。でも映画の中では芸術の名の下に創造することが可能です。何と罪深いことでしょう。
単館映画だったため、この作品に対する監督の対話形式のコメントを読みました。
映画を観ていて、フェティシズムの匂いを振りまきながら何故かセクシュアルな執着は薄いと感じたのですが女性監督さんだったのですね。
【観客が残した手袋をはめ、自分の脚を撫でさする】シーンに対して「おそらく演じた彼女は何の意味があるのかわからなかったでしょう。その辺は観客の解釈にお任せします」と言っていました。私の映画に関する主張として演じている本人が自分がどのような気持ちでその行動をしているのか判らずにやっている演技に一体何の意味があろうかと思います。そして「お任せします」も何も、貴女は何らかの意味を込めてその演技をやらせたのではないのか?と問いたくなるのです。
また、【ラストの噴水のシーン】も解釈が微妙でした。これはフランス人と日本人の解釈の違いでしょう。
【私はあのシーンに6年間世俗世界から切り離されてきた故の一般常識の無さ(公園で裸同然になる)に心の凍る思いをしましたし、また噴水が自由であったり開放的だとも感じませんでした。水は上から下に流れるもので通常上に吹き上がるものではないから。日本の庭園が山河を表現するものであるのに対し、欧米の庭園は人間の徹底した管理状態に置かれているので、水が不自然に吹き上がっていてもそれが「従順から開放された」と感じるのかもしれませんね。】