手紙(てがみ)

キャッチコピー:
兄貴、元気ですか? これが最後の手紙です。

ストーリー

川崎のリサイクル工場への送迎バス。最後部座席に、野球帽を目深に被った青年の姿がある。武島直貴20歳。誰とも打ち解けない、暗い目をしたこの青年には、人目を避ける理由があった。
兄・剛志が、直貴を大学にやるための学費欲しさに盗みに入った邸宅で、誤って人を殺してしまったのだ。数度にわたる引越しと転職。掴みかけたのに鼻先をすり抜けた、お笑い芸人になる夢。はじめて愛した女性との痛切な別離。兄貴がいる限り、俺の人生はハズレ。そういうことーー。
耐え切れずに自暴自棄になる直貴を、深い絶望の底から救ったのは、常に現実から目をそらさず、日の当たる場所へと自分を引きずり出してきた由美子の存在だった。しかし、そのささやかな幸せが再び脅かされるようになった時、直貴は決意する。――塀の中から届き続ける、この忌まわしい「手紙」という鎖を断ち切ってしまおうと。

コメント(予告編)

私がこの作品が気になると師匠に申したところ、「もーあんたは本当に(兄弟物)すきなんだから」とにやにやされました。
そんなことないもん。私が気になったのは原作者の「罪を犯すとは、刑罰とは、真の更正とは何なのかを考えて書きました」というコメントです。『25時』や『モンスター』に打ちのめされる人間としてこれは是非見てみたい。
でも「魂の人間讃歌」という文句に強烈に萎えてしまいました…。

関係ないけど私が真に好きなのは父子ものですから。

レビュー

お薦め度:.★★★★.
ゆれる』にはなかったものがこの映画にはあります。
それは罪を犯したものが裁かれるとはどういうことなのかということです。

兄剛志は成績の優秀な弟直貴を大学に行かせたいばかりに、一人暮らしの老資産家宅へ侵入し強盗、さらには誤って老資産家の命までも奪ってしまいます。自分が学が無いばかりに苦労してきたからせめて弟にはという切実な気持ちは汲み取ることが出来ますが、だからといって強盗や殺人が肯定されるわけではない。

唯一の家族だった二人はそれぞれ塀の内を外に別れて生活を送ることとなります。

■罪を犯すとはどういうことなのか
直貴は「人殺しの弟」というレッテルのために、職場を転々とし、成功しかけたお笑いの道も断念し、彼からしたら不当な左遷人事を言い渡されます。この様々な貧乏くじのひとつに「はじめて愛した女性との痛切な別離」があります。価値観や物事の考え方を共有できる本当の意味での愛した女性。(私は予告編で兄が犯罪を犯す前からの恋人なのかと思っていましたが)二人は結婚まで真剣に考えるほどの仲でしたが、たかが駆け出しお笑い芸人の男では上流階級の父親がいい顔をするはずもありません。それどころか、女性にもひたかくしにしていた兄の存在まで知られることなり現金と共に絶縁を突きつけられます。

ここで上手いなあというか酷く打ちのめされるのが彼女がひったくりに遭い顔に一生残る傷を負ってしまったというエピソードが加えられたことです。
勿論事件が起こった事に直貴は何の関係もありません。それでも犯罪が起こした結果とその被害者家族の怒りを目の前にして、兄の起こした事件を重ね合わせたに違いありません。彼女の父親は「いつか君が家族を持ったらこの理不尽さが少しは理解出来るだろう」と言いますが、直貴は既にその理不尽さが充分理解できたと思いますし、加害者家族として「それでも娘さんが欲しい」と言い出せないジレンマに苦しんだと思う。そして、そんな事件を起こした兄剛志に対しても。

■刑罰とは何なのか
刑期には様々な期間があり三年や七年、この兄の場合は無期懲役が言い渡されることになります。私は常々、この刑期というものに疑問をもっておりました。刑務所には二つの意味合いがあると思っています。

それは刑務所は犯罪を犯した罰として厳格で閉鎖された環境に置き「こんな場所にまた来る羽目になるくらいなら犯罪なんて割に合わない」と骨身に叩き込むため、という考え方です。そしてもうひとつ、刑務所は犯罪者を更正をする場所であるということ。だと仮定するのならば、この犯罪を犯したからすなわち何年といった風に決めていいものなのだろうかと。

過去に『25時』を見たときに刑務所に入る前から自分のした犯罪を後悔し、もうしないと誓っている人間に課す刑罰は果たして有効なのかと痛切に感じたものです。
また私は同時に一時期有名になったさだまさしさんの「償い」という歌を思いだしました。

■真の更正とは何なのか
剛志は日々塀の外にいる直貴にあてて手紙を書きます。季節の時候、昔の思い出、相手への気遣い。刑務所での辛いことは何ひとつ綴られることは無く、平素と変わらないような内容には、たった一人の肉親に対する心配りを感じられます。
でも、周囲が犯罪者ばかりの刑務所にいる兄剛志とは違い、弟直貴は加害者家族という圧倒的少数迫害の憂き目にあっていることを彼は知る由も無い。

終盤になり、剛志は被害者家族にも毎月手紙を書いていたことが明らかにされます。
「いっそ、手紙を書くのをやめてくれと手紙を出そうかと思ったがやめた。そのうちに気が付いた、これは彼にとっての般若心経なんだってね」私はこの被害者の息子の言葉に胸をえぐられるような気持ちになりました。ああ、そういうことなのだと。

加害者の剛志は反省している、それは疑う余地のない事実です。
犯した罪に、殺してしまった被害者に、そして被害者の家族に深く深く反省をしている。だけどそれはいつしか「反省する」という作業に埋没することとすりかわってしまった。救われるからと何も考えずに般若心経を書き連ねていることと何も変わらないことに、この人は気が付いていたのだと。だからこの人は彼がいつ気が付くのかと手紙が届くのを黙認していたのです。

剛志からの被害者家族への手紙には、弟直貴から手紙が届いたこと、その内容に触れ、今後一切手紙を書かないと謝罪文で〆られています。


罪を犯すとはどういうことなのか。刑罰とは何なのか。真の更正とは何なのか。
犯罪とは犯罪者自身が刑務所に入ればそれですむという問題ではない、本人だけでなく、その家族縁者も非常に辛い思いを味わうことになる。犯罪を犯すのならばそこまでの覚悟がなければ行ってはいけない。また刑罰・真の意味での更正とはその事実に気付き向き合うことなのだ、とこの作品は語りかけます。

私がこの作品において素晴らしいと思った点は、加害者家族が差別されることを単純に批判しないことです。
人間が自我と言うものを持っている以上他者との区別、それが負の形で成される「差別」と言うものは歴然として存在するものです。これはもうどうしようもない。作品中でも述べられているように「犯罪という異常な存在をなるべく遠ざけよう、自分の生活範囲から排除しようと言う考えは無くなるものではない」
現実、被害者家族ですら排除の対象となる今の社会で、加害者家族が表立って世間を歩くことは非常に難しい。

では加害者家族はどうしたら良いのか?この作品にはひとつの答えが提示されています。それは勿論決して簡単なことではないし、辛抱強さも必要となってきます。

それでも人間は前を向いて歩いていかなくてはいけないのです。

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