事件に詳しくない人間から見ると事件の展開がただ概要だけをかいつまんで説明している感が強くて中だるみな印象を覚えなくもありません。
それは主人公が捜査権限を持っている人間ではないこと警察でも新聞記者でもなく新聞社に勤務するイラストレーターという、まあ一般の人間よりは多少詳しい情報を得ることが出来る程度の人間であるところに負うものかと思います。
主人公を筆頭として捜査陣がこれと目した最重要容疑者ことリー・アレンバーグなる人物は登場しますが、最後の最後まで決定的な物証が得られないままに作品は幕を閉じます。
刑事犯罪事件を扱った映画は色々みていますが【逮捕はおろか、真犯人だと言う確信をもてないままに終わる】映画は初めてです。
■ダークサイド・闇の魅力
『ブラックダリア』と比べると事件そのものの奇怪さよりも、その事件の謎に魅了された人間の性(さが)をより強く感じます。人間であるが故にどうしても知的欲求・謎の解明に躍起にならないではいられない。
真犯人を突き止めたいと言う好奇心が実生活を壊すまでにいたっても、なおもグレイスミスは犯人探しをやめようとはしません。
実行犯と想定される人物とたった一人で対峙するような恐怖体験(このシーンは間や演技が面白くてつい笑ってしまった)をしても、夫婦生活がぎくしゃくしても(子供に質問されるなんて堪えるなあ…直後に上の子が言った子をつっついているのも笑えたと言うか一寸不憫)、奥さんが実家に帰っても、離婚届を投げて寄こされても、真犯人を突き止めたい・その瞳の奥を覗き込んでこいつだと確信したい、と言う欲求から逃れることが出来ない。
こいつこそ犯人だと言う確信。「知りたい」という欲求。
これこそ闇の魅力と言ったものでしょうか。
■創作された事件と現実の事件
フィンチャー監督と言うことで『セブン』と同質のものを期待してしまいますが、逆に『セブン』はフィクション、『ゾディアック』はノンフィクション(が元)だということを実感します。
『セブン』は私も大好きな作品ですし、整合性のある作品だと思っています。が、リアリティが有ればあるほど、洗練され出来が良ければ良いほどに、現実に起きる無駄や回りくどい手法はそぎ落とされてしまいかえって、都合の良すぎる進展になっていくのだなあと感じます。(なんたって二時間で犯人検挙できるんだからやむなしですけど)
同じように図書館から貸し出し履歴を拾ってきても、数多くの筆跡が残っていたとしても犯人と思しき人物に直接繋がるような確信的な物証があがるかどうかは難しい。
筆跡鑑定家が真実を指示するかどうかも分からない。
『セブン』もアパートを訪問して銃撃戦にならなければああもとんとん拍子に家宅捜査や犯人検挙に繋がったのかどうか。
この作品だけ見ているとゾディアックが逮捕されなかったのは、州をまたいだ事件ゆえに情報の交流がなかったため、または筆跡鑑定の論理が様々であった為、という印象を持ってしまうのですが、実際は各地で起こる事件がゾディアックの犯行であるかどうかの見極めが難しかったこと、世間の耳目を集めた事件ゆえに行ってもいない自白をする人間が多数いたことも原因であったようです。
この作品を観てリー・アレンバーグが犯人だと皆が思ったとしたら製作者としてはしてやったり、といったところなんでしょうか?
私はまだこの作品の原作とされる「ゾディアック」を読んでいないのですが、他の本で読んだ事件の概要と比較すると30%程度違うような印象がありました。被害者の名前や容姿は正確に表現されていますが、容疑者は匿名になっていましたし作品に出てこない殺人事件もあったようです。
これを機にゾディアックの魅力に取り付かれてみては?(笑)