硫黄島からの手紙 (いおうとうからのてがみ)

キャッチコピー:
世界が忘れてはいけない島がある。

ストーリー

敗戦必至の硫黄島での戦いを、意外な機略をもって歴史的な死闘に変えたという日本軍屈指の名将、栗林忠道中将の戦いを中心に描いたストーリー。

コメント(予告編)

父親たちの星条旗』との二部構成作品。役者関係としては日本人が多いこちらの方に関心があります。獅堂君もでているしの。渡辺謙もでておるしの。(しかしもはやハリウッドでは日本人男優というよりケン・ワタナベって感じですね。しかたがないけれど)
でも内容的にはどうも「いかにも」な臭いがしてしかたがありません。アメリカが作ってもやっぱりこういう感じになっちゃうのかなあ…私が日本人だから仕方が無いのか?

レビュー

お薦め度:.★★★☆.
第一作『父親たちの星条旗』よりは集中して鑑賞することができました。やはり日本人だからでしょうか。それとも期待過度で無かった分素直に入り込むことができたのか。
当たり前といえば当たり前なのですが、「アメリカ人から見た日本人の硫黄島」でした。そして『父親たちの星条旗』は「アメリカ人から見たアメリカ人の硫黄島」なのだと思い至りました。

渡辺謙さん緩急のついた流石の良い演技でした。しかし主演の割にはあまり登場することがありませんでした。二宮和也君も高い評価を受けるだけあって細かい動きの演技付けが良かったです。助演ということになっていますが、ダントツに登場シーンが多いですし、彼の方が主演じゃないかと思ってしまいました。中村獅堂君相変わらずカッコいいんだかカッコ悪いんだか良くわからない人物を演じさせたら天下一品。惚れますね(笑)

バロン西が登場したのは意外でした、知る人ぞ知るオリンピックメダリストの乗馬選手。第二次世界大戦で亡くなったということは知っていましたが最後の地が硫黄島とは。こういったアメリカ人でも知っている日本人を持ってくるところは流石にアメリカ映画といったところ。

■先に不満点を
とにかくCGのしょぼさには参りました。特に俯瞰で航行する船の群れには気が遠くなるかと…あんな碁盤の目の様に一直線に航行できるものなのか。爆撃シーンも何だか合成くさいし。

憲兵のエピソードで犬が登場しますが、終戦末期・敗戦の色が濃厚なあの時期に軍用犬に使えない犬が普通に飼われていることに疑問を感じます。
以前ある本を読んだ時に終戦末期には犬を飼うことは贅沢・兵隊さんへの毛皮を送るという名目で犬は連れて行かれて撲殺された(涙)という話があったのですが、あのエピソードはもっと以前の話だったのでしょうか?

■日本人のアメリカ映画
オール日本人、日本語の映画なのにやはり海の向こうの製作した映画。邦画とは違う雰囲気を随所に感じました。
まず、音声があまりクリアではない。未見の方は耳の穴をよく掃除してから鑑賞されることをお勧めします。日本人を起用していても日本以外の国では吹替えされるのですから日本語がはっきりと聞き取れる必要がないために、アナログ音声のように聞こえますし、全体的に何だかみんな早口でぼそぼそ話すことが多いです。
日本語映画なのに聞き取って理解するまでにちょっと時間がかかる、まるでありもしない字幕を読んでいるような印象を受けました。

やたら日本国旗が映るような撮り方をする。日本帝国も国旗は大切にしますが、アメリカの国旗(星条旗)に対する思いいれはひとしおです。邦画戦争映画では思いもつかないほど国旗に視線をもって行くように仕向けています。
日本のお国の象徴は現人神の天皇陛下であらせられましたが、歴史も王制も存在しないアメリカにとって星条旗は本当に国の象徴なんだなあと思いました。

日本兵を酷い扱いをする人間に描く、また逆に米兵を国際法に違反するような人間に描く。
これは「アメリカ人から見た日本人の戦争」映画のメリットですね。これが邦画・洋画でしたらおためごかし、手前味噌に感じられますが双方を描くことは非常に公平な印象を受けました。

■映画としての硫黄島
この戦局の何処までは事実に忠実なのかは私にはわかりませんが、事実であるゆえの散漫さを感じました。
現実において、実話や事実はただ状況を語るのみで、見た人間に何かを教えるものではありません。戦争で死んだ人は、戦争の何処がいけないと我々に教える為に死んだわけではありません。戦争で死んだ人間がいるから、戦争はいけないと我々が(勝手に)学んで気付くのです。

では、教えるものがあるとすれば何かというと、それは「作品」です。
映画であったり絵画であったり小説であったりします。作り手の意図から抽出され、見る側が(意識的であれ無意識であれ)学び・気付くように様々な手を加えられます。

その点で「硫黄島からの手紙」は事実の加工に統一感を感じられませんでした。
確かにどのエピソードにしても「○○だから、戦争をすることは虚しい」と訴えています。が、「人間が尊厳なく血みどろで悲惨な死に方をするから」という論法は余りにも使い古された手法です(映画の見すぎですか?)。自決する無意味さを説いている傍らでやはり自決を悲惨さな敗戦現状から逃避させる安息の手段のようにも描きます。勿論心持は全く違うものですが、客観的事実は同じです。

こういった自決・切腹は『ラスト・サムライ』に少々通じるものを感じました。
消え行くもの廃れ行くものが「せめてこういう静かな心持で逝ってくれていたら良かったのに」という祈り、もしくは理想のようなもの。死を覚悟して戦いに挑んだ兵士達、彼らは再び日本国の土を踏むことはなかったけれど、彼らが日本に残していった人たちに思いを馳せる時間がほんの少しでもあったのなら、敗北してもやり遂げたという僅かな達成感があったのならと過去に対する願いのようなはかないもの。

■二部作品としての硫黄島
さて、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』両方から見た硫黄島の作品を鑑賞し終えました。
この二つの作品を観たことで私は何を得たのか?イーストウッド監督はこの二つの作品を対にすることで何を訴えようとしたのか。
…私には判りません。

かつて強く批判をした『父親たちの星条旗』は「硫黄島の映画」だと聞いていたのに硫黄島での出来事は余り描かれることがなかったため途中で興味も薄れましたし、強い失望感を感じました。しかし思い返してみるに「戦争映画」としては戦争を政治・金策絡みで描くという点は珍しい着眼点でしたし良作だと言っても良かったのかもしれません。
逆に『硫黄島からの手紙』は確かに「硫黄島の映画」ではありましたが、戦争映画としてはありふれた特記するもののない作品でした。
アメリカ人は硫黄島で抵抗する日本兵に何を見たのか、また日本人は硫黄島を侵略するアメリカ兵に何を見たのか。この双方からの視点があってこそ「硫黄島二部作品」は相乗効果によって素晴らしさが引き立つはずだったのに、何故『父親たちの星条旗』は本国の話がメインなのでしょうか?

まず最初に『父親たちの星条旗』の企画が立ったからでしょうか?『硫黄島からの手紙』は後付けだったのでしょうか?
監督にとって戦争とは何だったのでしょう?戦争世代とはいえ年齢的に出兵はされていないと思うのですが、彼にとって戦争とは戦地とはどのようなものだったのでしょうか?

栗林中尉が無念の嘆息を吐きながら死んでいった同じ空の下で、アメリカ兵が上機嫌で海水浴していたかと思うと…。日本兵が「鬼畜米兵だと思っていたメリケンも我々と同じ人間だった」と暗澹たる表情をしているのに、「俺たちは英雄になりたかったんじゃない、仲間と一緒に”ジャップを殺りたかったんだ”(と書いて”硫黄島に留まりたかったんだ”と読む。超ひねくれた見方)」と考えていたかと思うと、何だかなあ…というか腹が立ってきます。

ああ、いけないいけない。斜め読みが過ぎました。…私には理解できませんでした。ということで。

[ HOME ]