カポーティ(かぽーてぃ)

キャッチコピー:
その本のタイトルは――『冷血』

ストーリー

1959年、カンザス州ホルカムで農業を営むクラター家の4人が惨殺された。この事件に関心を持ったのは、アメリカ文壇の天才にして、社交界のスター'トルーマン・カポーティ'。逮捕され死刑を宣告された2人の殺人犯を、カポーティは刑務所に訪ねる。持ち前のカリスマ性を発揮し、危険な殺人犯をも虜にしてゆく。「この題材で現代文学最高の小説を生み出すことができる」。カポーティは名声への野心を燃やす。本のタイトルは――『冷血』。<ノンフィクション・ノベル>は絶賛され、世界的ベストセラーに。時代の寵児となるも、その内面は急速に崩壊していった…カポーティにいったい何が起こったのか――?

コメント(予告編)

最近では『M:I-3/ミッション:インポッシブル3』で気持ち悪い(失言)演技を披露してくれたフィリップ・シーモア・ホフマンの新作。カポーティって「ティファニーで朝食を」を書いた作家なんですって。イメージがつながらない…。映画を観るまでは禁書としようと思っていた『冷血』ついうっかり図書館で借りてしまいました、結構面白い。この作品の内容がどのように作中で表現されるのか非常に楽しみです。

レビュー

お薦め度:.★★★☆.
元ネタの「冷血」を読んで鑑賞に望みましたが、それが吉と出たか凶と出たかは非常に微妙でした。

タイトルにも有るようにこの作品はフィクションノベルの先駆けとなった「冷血」を書いたトルーマン・カポーティの半生…というよりは「冷血」という作品の創作に魅入られた作家の精神状況を追っていくことに終始しているように感じられました。
元々演技達者で好きな俳優ではありましたがフィリップ・シーモア・ホフマンは流石数々の賞を総なめにしただけのことはある素晴らしいカポーティ像を打ち出しています。
私はカポーティそのものがサイコパスに近い人物なのかと勘違いをしていました。(予告編で犯人像に対して「彼と私は同じ家で育ったようなもの。ただし彼は裏口から出、私は玄関から出て行った」といっていたから)しかしそれは観客である私も、そしてカポーティ自身も勘違いしていたことでした。
一家四人が惨殺されるという事件の周辺及びその犯人像に迫っていくカポーティは心身共に変調をきたすようになっていきます。
「闇の深遠を覗く者は、闇からもその姿を覗かれる」と言うような言葉があったかなかったか。

■「特別」と「普通」
カポーティは「冷血」を書きながら自分は「特別」な存在だと意識しただろうと思う。
犯罪の魅力にとりつかれ、その足跡をたどることに例えようもない楽しみを見出したことでしょう。完璧な作品を創るという熱意に推され、犯人と接触し彼の真の姿を知る為に、「君の本当の姿を後世に残す為にも真実を語って欲しい」と熱心に説得をし、有能な弁護士を雇い、友情すら育もうとする。

それは果たして本当の上記でも述べているように、本当に彼と自分に同一性を見出していたから?半分はNO、半分はYES。
カポーティの言葉は、犯人の中にある孤独感に同情し自分を重ね合わせてのことではありません。己の創作物という私利私欲のため、(社会的)弱者にいる人間の立場に甘言をささやきかける。自らの利益のために、無抵抗の人間を死に至らしめた彼らの悪行と己の偽りの友情を重ね合わせて皮肉っているに過ぎません。

常日頃から感じていた常人とは違う「何か」を犯人者のそれと重ね合わせるようになっていく。
人間を二つの人種に分ける時様々な方法がありますがそのひとつに、「特別」と「普通」があります。カポーティは世間に指示される優れた小説を書く特別な存在です。しかも幾人かいる小説家の中でも「何か」が圧倒的に違います。彼自身はその「何か」が余りよく自覚していなかったように感じますが(その辺が脚本的にも演技的にも素晴らしい)、常に人々の中心にいたいという強い欲求と、他者に対する関心が薄いように私は思いました。ウィットに富んだ話を披露して周囲の人を楽しませる割には、会話となると相手の心境などはお構いなしな時もあります。
彼は「特別」な中でも特に「何かが他の人とは違っている」人物でしたし、彼自身「特別」な中での「特に特別」であることを強く望んでいた人です

「普通じゃない」事件に興味を引かれ、後世に残る「特別」な作品書くチャンスに彼は夢中になったことでしょう。
しかし度重なる審議の繰り返し、死刑の延長。一向にこの「特別な小説の終焉」は訪れることがない。
親しげに面会をしていた犯人達に心から早く死刑が訪れないかと願う日々を悶々と過ごししていたカポーティにようやく届く死刑執行予定の報告。

多分死刑執行を確認したと同時に猛然とタイプを打ち込み原稿を書き上げるものと彼自身も思っていたはずです。何しろ彼は「特別」だと自分でも思っていたのですから。しかし、あれほど望んでいた終焉が訪れた時、彼は大きく揺らぐ。果たして自分は本当に彼らの死を待ち望んでいたのだろうかと。ここで初めて「作品の最後」と同義であった「人の死」が一つの意味をもつことになります。

例え当初は偽りであったとしても、交流を持ち会話を楽しんだ人間が目の前で公然と死んでいくことに、彼の精神は耐えられなかった。あたかも犯人が自分が起こした殺人に恐れおののいていたように。
犯罪者が罪に怯える「普通」の人間であったように、彼もまた人の死に衝撃を受ける「普通」の人間であったのです。

映画によると「冷血」はトルーマン・カポーティの代表的名著となりましたが、その後彼は一冊も書き上げることがなかったそうです。
何か「特別」な才能があるという自負心(あるいは傲慢さ)は偉業を成し遂げる原動力になります。そう考えると「普通」であることを自覚してしまうと、何も書くことが出来なくなるのかもしれません。

正直なところ、面白味があるかというと決して身を乗り出して見るような作品ではありません。最近に作品でいうのならば『太陽』と似ているのかもしれません。過去の実在の人物を模して作れらた映画がそうであるようにその人物そのものが好きな方には熱狂的に迎えられ非常に有用なテキストとなることでしょう。

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