ミュンヘン(みゅんへん)

キャッチコピー:
わたしは正しいのか?

ストーリー

1972年のオリンピックで11人のアスリートが殺された。深い哀しみの中、政府がくだした決断は<報復>1972年9月5日、ミュンヘン・オリンピック開催中、パレスチナゲリラ "ブラック・セプテンバー 黒い九月"によるイスラエル選手団襲撃事件が起こった。 激怒したイスラエル機密情報機関"モサド"は暗殺チームを編成、報復を企てる。 リーダーに任命された一人の男 アフナー。人を殺したことなどない彼は、愛国心と 哀しみを胸にヨーロッパに渡る。妊娠7ヶ月の妻を残して・・・・。他4人のスペシャリストと ともに、アラブのテロリスト指導部11人を一人一人消して行くアフナー。指示を受けるが まま任務を遂行、見えない恐怖と狂気の中をさまよう男たち。私たちは正しいのか? 果たしてこの任務に終わりはあるのか? そして、愛する家族との 安らぎの日々は待っているのだろうか・・・・。

コメント(予告編)

流石に早撮で有名なスピルバーグとはいえ、思った以上に早く上映するのでちょっとびっくりいたしましたわ。あの(?)エリック・バナ主演の映画ですし、大喜びで見に行きたいと思います。

レビュー

お薦め度: ★★★★ 

まずはアカデミー賞ノミネートおめでとうございます。

私にとってシンプルすぎる点があり、難し過ぎる点もあり。
私にとってシンプルだと感じた点は、この作品がごく普通の男性の愛国心と家族愛を天秤にかけた葛藤だという点です。実に明確にこの点に焦点が有っていて予断をはさむ隙が無かった。

私には何故彼が国家プロジェクトともいえる暗殺計画に抜擢されなければならなかったのかが不思議でした。本当に料理の腕が上手かったから…?

最初の暗殺では動揺しまくって危うく未遂に終わってしまうのかと感じるほどの出際の悪い進め方だったこのチーム。徐々にその暗殺の腕を上げていきます。
それと同様に「殺人」という大きな罪に対しての感覚が鈍くなっていく。「国のため」「仕事」と割り切ってやっていると自分を言い聞かせるアフナー。
しかし、チームのメンバーが暗殺されたことが大きな転機となります。仲間の報復、それは「国のプロジェクト」とは大きく外れ、「仕事」でもありません。怒りと悲しみに任せて暗殺者に報復した後、彼らは気が付きます。

■私達は正しいのか?
自分たちが行っている「計画」が、結局のところ感情的で身勝手で何の意味も無く、またさらに「計画」されかえされる可能性に。

アブナーには愛する妻がいて、子供がいる。日々成長していく子供を見守っていくことすら出来ない「仕事」は一体何の意味があるのか?
真夜中、侵入者に怯え、電話やテレビを解体し、ベットのマットレスに安心して身をゆだねることが出来ない生活。「悪」を摘み取ってもまた新たな「悪」がその位置に付く、永遠にこの繰り返しを生む、そんな「仕事」は果たして正しいことなのか?

■政策という名の「報復」(復讐)
政策という言葉を使ってはいますが彼らの行っていることは単なる「復讐劇」以外の何者でもない。
復讐は常にむなしい。それは過去に多く紹介している数々の作品(ひとつあげるなら『オールド・ボーイ』)が教えてくれています。

私は復讐というものは常に、残されたものが残されたものの為に行うものだと思う。流石に全く無いとは言いませんが、死んでいった者が復讐してほしいと願うことは少ない。復讐することで残されたものの気が済むのです。
映画「ミュンヘン」の暗殺計画も死んでいって者への追悼というよりも、国の面子が先にたっています。

精神的に追い詰められていくアフナーはこの仕事の発端となる「ミュンヘン事件」のことを夢で追憶します。

私は思う。このシーンは何を意味しているのだろうと。

事件で殺されたオリンピック選手は一般市民だったアフナーにとって、母国が同じと言うだけで何の縁もゆかりもない人達です。
自分の仕事=「復讐」と悟ったアフナーは選手たちのことをどう思ったのだろう。 そして何の感情も抱いていなかった人の復讐をしている自分のことをどう思ったのだろう。
彼は殺された選手たちと自分、それぞれのことをどう思ったのだろう。

私は選手たちは殺されたことも気の毒だと思いますが、それ以上にその死を悼むよりも先に「政策」として利用されたことが悲しいと思う。この復讐の空しさは、「死んでいった彼らを愛していたわけでもない人々(ヘフナー)が復讐する」ことだと思う。この空しさは他の作品にあるような「復讐しても愛した人が還って来るわけではないことを改めて悟る」のとはまた別の空虚さがあるのではないでしょうか。


彼は最終的に国を捨ててアメリカに移住します。でも、アフナーは決して愛国心が無い、とか薄い訳では無いと思うのです。

■国とは何か?
私が感じ入ったシーンがあります、(恐らく)移民系のテロリストのリーダーと二人会話をするシーンです。
「そんなにオリーブの木が恋しいか?白亜の煉瓦の家に住みたいのか?」というアフナーの答えに相手は「恋しい。子供の代孫の代になっても我々は帰る国を持ちたい」そんなことを答えていました。(それに対してアフナーは「自分の帰るところは妻子のいるところだ」と言っていましたね。すでにここで彼の意識は変化していたのかもしれません)
「国」と言うものは一体何なのでしょうか?土地?風土?民族…?

私は日本で生まれて日本で育ち、引越しをしたことも無い日本人です。少なくとも「国」と言うものに何の疑問も持ったことがありません。どこかを恋しいと思ったこともありません。
その意味で私には「国」というものに何も喪失感を感じたことはありません。(たとえ政治が腐敗しても、自然が破壊されていても。日本には変わりない)
移民系の人々の切ないほどに「国」を恋焦がれる気持ちを頭で理解することは出来ても、真の意味で理解することは永遠にないような気がします。

私はヘフナーにもほんの少しだけ同じものを感じました。
何も失ったことの無い彼がこの「仕事」で失ったもの。それは国家ではなく「家族の絆」でした。国家の上司の励ましよりも、幼い娘のたどたどしい「ダディ」という単語に、彼の心は慰められる。(あの表情は「慰められる」とはまた違う感情だと思うのですが私には適切な言葉が思い浮かばない)
だからこそ彼は「愛国心」よりも「家族の絆」を取った。
アフナーにとっては故郷とは「帰るところ」であって決して「土地そのもの」ではなかったのです。

ラストで祖国に戻るようにいいに来た上司とアフナーが会話を交わします。
祖国から来た上司を完全に客人とみなして夕食に誘うアフナーと、彼の決して祖国には戻らないという意思を感じ取ってその申し出を断る上司。関係を実に端的に表現したすばらしいシーンだと感じました。

■家族とは何か?
話の大筋とは外れますが、「ミュンヘン」にはアフナーという家族とは別に興味深い家族が登場します。それが「情報屋」とその父親一族です。
アフナーの家族とは別の意味合いを示しています。
情報屋の父親はアフナーを自分の息子がそうであれば、と言うほど認めてはいますが、それでも出来の悪い息子を立てます。何か「グラディエイター」の関係図を思い起こします。
自分の息子はそりゃ出来がいいほうが良い。でも出来の悪いからといって本当の息子を無下にすることは無い。
これまた矢張り上手い言い方がないのですが「家族ってそういうものよね」と思います。甘いと言えば甘いのかもしれませんが、損得感情ではない何かが「家族の絆」と言うものにはあります。


このように、良い点はたくさんありました。実にシンプルですが奥深いテーマです。
難しいと感じたのは…私が当時の政治事情を全く知らない点と、イラン・イラク・イスラエル・ユダヤ・パレスチナ国(人)のはっきりとした違いを理解できなかった点。
途中から人種が入り混じり始めたらもう誰が味方で誰が敵なのかよく分からなくなってしまいました。

しかし、私実はこんなにバナさん好きだったのかしら?と思ってしまうほど彼に釘付けでした。うーん素敵かっこいいわ。
当初は「バナさんがん頑張っているだけあってイスラエル人に見えないことも無いわ」と感心していたのですが、国が変わって衣装や雰囲気が変わってしまったら…うーんやっぱり白人だなあと(オーストラリア人?)
あの無精ひげ具合とか、妙に発達した胸筋とか(大笑い)、背が高い割りに実は結構細く見えるところとか、ウエストが細いところとか、お尻が小さいところとか…。
多分私夢を見てるんでしょうけどね。バナさんはヘクトルじゃなくてバナさんなんですけれどねーーーー。いかんいかん。

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