最近後味の悪い作品を沢山みてきましたが(好きなんでいいんだけど)、第二次世界大戦より以前からここまでユダヤ人が迫害されていたのかと本当に泣けて仕方がありませんでした。
私は原著を読んでいませんので、元ネタとどれくらい違うかどうかは細かいところは判りませんので映画そのものとして述べさせて頂きます。
衣装・美術・音楽ともにビジュアル面は非の打ち所のない完璧なできでした。音楽は本当に美しくてちょっとCD買ってしまおうかなと今迷っているほどです。
もともと戯曲なせいもあるのでしょうが、ちょっと大げさ気味なところもコミカルでおかしく、特に花嫁を娶るための三つの箱選びのシーンは、それぞれの求婚者のセリフ回しなどが楽しかったです。
■男性キャラクター
主演のシャイロック、アル・パチーノは流石に満を持しての出演だけあって実にすばらしいものでした。
そりゃ確かにシャイロックは偏屈ものかもしれませんけれど、あんな扱いを受けていれば誰だって偏屈になるわ。
アントーニオもある側面から見れば、友人のために保証人になるなんて「いい人」なんですけれど、よくもまあ自分が唾棄するような対象者に金を借りようという気にもなるものです。バッサーニオなんて財産をすっからかんに使い尽くす若造とどうしてあんなに厚い友情と持っているのかわかりませんな。
二人とも、ちょっとして洒落っ気として人間の肉一ポンドなんて約束をしてしまったのが本当に運のつきです。
最初は本当のほんの冗談だったのでしょうけれど、積み重なる迫害の恨みと不幸がそれを現実のものとして裁判で争われることになってしまったわけです。
バッサーニオの他力本願ぶりには正直イライラさせられました。
■女性キャラクター
ヒロインのポーシャ、見目も麗しくそれ以上に心が美しい、と言われている割には、妙に皮肉が過ぎる女性でありました。その辺は戯曲っぽいからかもしれませんけど。
きっとこの聡明なポーシャが男装をして颯爽と裁判所に現れ、夫の友人の窮地を救うところが痛快な点なのでしょうが(そこはよしとしましょう)、そのあとでその例の品として事前に自分があげた指輪を要求するところがなんとも女性らしい発想です。その、夫の友情と自分への愛情を天秤にかけて試すところがなんともかんとも。
私はてっきり、窮地をすくってそのまま何食わぬ顔で夫を出迎えるものだとばかり思っていたんですが。
そのあと自宅に戻った夫を何食わぬ顔でなじるとこなんて、なーんて女性らしい「いやらしさ」にあふれているものだと感心いたしましたわ。
シェイクスピア、女をよく見ているなあ…
シャイロックの娘も大概むかつきます。恋とは盲目とは言いますがまったくそのとおりですね。あの家の財産はシャイロックのもので決してお前のものではなかろうに。(怒)
駆け落ちが成功したらキリスト教に改宗します、なんてあっさり言ってしまうところも浅はかっぽいし。神が怒っておったぞ(雷鳴)。
■キリスト教
これって一応一大喜劇なんですってね、私には悲劇にしか思えませんでした。
よもやこの映画が、ここまでキリスト教の独善性が仄見える作品にしあがっているとは思っていませんでした。何故、ユダヤ人は昔からここまで憎まれていたのでしょうね。ユダヤ教もキリスト教も基本は同じ神様を信じているはずなのに。
宗教の自由って本当に大切なことだなと思いました。特に一神教は対立が本当に厳しいのでその辺をまざまざと見せ付けられた思いでした。
この作中のキリスト教徒達からは、心が本当に広くて、ユダヤ人もユダヤ教徒も「一応」認めてさしあげていますのよ、こんな私たちって全世界的に愛されていて当然、的な発想というか意識がびんびん伝わっていきます。
何が金を貸すときに利子を取るな、だ。バーカバーカ。
ラストの財産没収の意見もひどい話だと思いましたが、アントーニオがさくっとシャイロックにキリスト教への改宗を命じるところなんかびっくりいたしました。
それに対するシャイロックの反応が本当にいたたまれない。
当時は本当に宗教は心のよりどころなのに。
アントーニオの命令は恐らくシャイロックの娘に対する配慮と、こんな蛮行を実行するシャイロックもキリスト教に改宗することで魂が救われ、天国にいけるでしょう、的な「キリスト教徒的」配慮なのは明らかで。
そのまえの「われわれはキリスト教徒なので慈悲を持って、シャイロックを赦そう」なんていいやがる。
ラストでユダヤ教の礼拝を、なんとも表現できない表情で見るシャイロック。
自分が信じている宗教を捨てることを命ぜられて、崇拝もできない宗教を信仰していかないことがどんなにつらいことか。
彼がいったい何をしたというのか、キリスト教徒・非ユダヤ人が実行してきた数々の迫害や蔑視を赦してやれというのか。
中盤でシャイロックが血を吐くようにわめいています。ユダヤ人が一体他の人間と何が違うのかと。人間はそこまで寛大にできるものか。
軽蔑はするくせに、寛容になれなどということははっきりいって不可能です。
シェイクスピアの時代には「喜劇」として成立したこのお話、時代が変わればとらえかたも変わる。その良いお手本のような、実に後味の悪い納得のいかないお話でした。