ネバーランド(ねばーらんど)

キャッチコピー:
ピーター、そこは夢がかなう場所なんだ。信じれば、必ず行ける。

ストーリー

1903年のロンドン。緑のまぶしいケンジントン公園へ日課の散歩に出かけたバリは、若く美しい未亡人シルヴィアと彼女の息子であるディヴィズ家の4人兄弟と出会う。なかでもバリが関心を寄せたのは、父の死と同時に夢や希望を持つことをあきらめた三男ピーターの存在だった。たったひとりで心の傷と格闘するピーターに、空想の世界で遊ぶことの楽しさと、物を書くことの喜びを教えるバリ。彼と母シルヴィアの深い愛情に包まれながら、ピーターは、少しずつ子供らしい純粋さを取り戻していくのだが……。

コメント(予告編)

私が行かないわけがありません。(苦笑)前売り券だって買ってしまいます…。
キャストもなかなか豪華ですし、アメリカでも評価が高いようですので楽しみに、ええ本当に楽しみにしています。

レビュー

お薦め度:★★★★★
期待しすぎかと思いましが、それを上回る実に素晴らしい作品でした。
未見の方は原作「ピーターパン」か昨年の映画「ピーターパン」をご覧になってから観ることをお勧めします。そうすれば、この作品の良さがよりよく判ると思います。

世間では「ピーターパン」=ディズニーとなっていますが、jmバリの原作は子供の空想の楽しさや幸せな面ばかりではなく、純粋ゆえの残酷性や、現実社会との葛藤、心の痛み、得られるものや失うものに対する気持ちが密やかに込められています。
そのような作品を書いた彼は一体どんな人物だったのでしょう。

■まず、私としてどうしても外せないのが主演ジョニー・デップの演技。解説を読んだときから「これはやってくれそうだ」という期待感がありました。大体毎回「ジョニーの演技」にはやられるんですけど。ただ「作品の出来」には全く左右しないのが困ったところ。

で、どこで彼の演技にやられたかというと…幕間から覗き込むところです。本当に最初の最初ですね(苦笑)
自分で製作したお芝居なのにあの目線。自分に全く自信が無い上に、他人に意見求めて「大丈夫ですよ」と言われると「気を使ってくれている」と傷つき、「駄目だ」と言われると「やっぱり」と傷つく。
要するに何を言っても自分で自分を傷つける人。

■jmバリは空想の世界が大好きな一寸困った人です。社交界どころか大人社会のことが今ひとつわかっていません。友人として純粋にシルヴィア一家のことを心配して援助の手を差し伸べようとしますが、そのことで周囲からあらぬ噂を立てられることや、奥さんから勘ぐられることなんてちっとも考えていない。

いやこれが本当にこれっぽっちも判っていないのです。
子供が眠る時間に未亡人の御宅にいても平気。友人(の仲だとバリとシルヴィアは本気で思っている)の不幸を援助することを非難されるなんて思ってもみません。

自分が客観的にどう見られているかがわかっていません。大人になりきれていない子供な大人です。

そんな彼は(シルヴィアと出会う前から)妻と上手くやっていけていません。
元女優だった彼女はバリの才能に魅了されて結婚したようなのですが、実際の生活となると、子供っぽく奇行の過ぎるバリについていけません。
それこそが彼の創作の源であり、彼女が「連れて行って欲しかった」というネバーランドの入り口なのですが、彼女はバリの散歩の誘いを断ります。

中盤で帰宅したバリが【男と一緒にいる妻を見た】ときもそうです。【彼女は「私はバリとシルヴィアの仲を咎めるんだから、貴方も咎めなさいよ」と思っていますが、バリは「僕はシルヴィアとの友好関係を咎められたくないから、君の行動(例え不倫だったとしても)を咎めはしない」と思っています。
妻はバリの言動に「これはお芝居じゃない(バカにしないで)」と言いますが、バリは本気でそう思っているのです。

夫婦の間には明らかな価値観の違いがあります。

■対してピーターは幼いのに空想の世界で遊ばない少年です。父親が無くなる前日に「明日はお父さんと釣りに行きましょう」と言われてそれが適わなかったことにとても傷ついている。母親が自分に嘘をついて余計な期待を持たせて、奈落に突き落とされたと感じている。だから空想なんて信じない。嘘なんか大嫌い。

人にとって肉親の喪失は大きな痛みです。小さな子供ならなおのこと。ピーターはその痛みを何とかしたくて、その痛みは嘘のせいだと思い込もうとしている。変な期待をしてそれが裏切られたときの痛みは大きい。期待しなければ傷つかないですむ。だから安心。

期待をしないことが大人への第一歩だと信じて必死になって、嘘を暴こうとして、背伸びをしている。早く大人になりたいと願う大人な子供です。

そんなピーターにバリは一生懸命教えようとします。空想の楽しさや創作する楽しさを。

しかしこの作品は空想と現実、どちらかだけを賞賛することもしませんし卑下することもありません。
空想の世界でいることは決して美点ばかりでないけれど、空想の力を持つことは大人の社会を生きていく上で不要なものでなく、時としては必要なものであるということ。 そんなことを諭してくれるような作品です。

■自分の幼年期のことを話すバリ。「僕はその瞬間大人になった」
バリは少年時代に兄を亡くしています。悲嘆にくれる母の為に兄の振りをした時に「母は初めて僕を見てくれた」と彼は語ります。

大人の空想を受け入れネバーランドで生きる(母親にとっての永遠の少年を演じる)ことを強いられたバリは(【ラストでピーターが言うように】)本当にピーターパンなのだと感じます。現実社会に戻っていくウェンディやロストボーイズたちを見送ってネバーランドに帰る永遠の少年。

自分は大人になるために(母親の空想に)引きずり込まれ、ピーターは大人になるために現実しか見ようとしない。

バリは自分が大人社会で上手くやっていけてないという自覚がある気がします。妻とも価値観が決定的に違いますし(互いに別々の部屋に入るシーンの演出はすばらしいです。バリの部屋は空想の世界なのね…)シルヴィアの母親とも上手くやっていけない。
バリは社交界になんら魅力を感じているわけではないけれど、現実社会を生きていく上には折り合いをつけていくことも必要だとは判っている、でも上手く出来ない。相手の意見にものすごく傷つく。

自分が空想だけでは上手く生きていけてないことを理解しているからこそ、ピーターには現実だけでは上手く生きていけないのだよと教えたいのかもしれません。

■大人になるとはどういうことか。「【きみは今の30秒で大人になった】」
シルヴィアに会いたいバリと【会わせないとつっぱねるシルヴィアの母親の間にたち「母さんはもうお前の子供じゃない。世話をしてくれているからって命令する権利なんてない。ここは僕達と母さんの家だ。母さんが会いたいと言ったら会わせるんだ」】と言う言葉に本当に涙が出ました。
バリは(その意味では子供だから)あきらめかけていたのに。長男が大人にならなかったらシルヴィアとバリは対面することは出来なかった。

イマジネーションの素晴らしさを描く作品なのに、子供の純粋さだけを強調することなく、大人になることの意味や重要性もちゃんと描いているこの作品は本当に素晴らしいと思います。

■ネバーランドとは何か「where will your imagination take you?」
ネバーランドとは空想そのものです。空想することにどっぷりと浸りきってしまえばそれは「空虚な妄想」です。しかしバリは知っているような気がします。現実の世界を知りながらも空想することは、「希望」や「願い」「祈り」なのだと。

子供だけでなく大人でも現実と空想のあやういバランスを取りながら生きている。

「お父さんと釣りに行きましょう」と言った母親の言葉がその場限りの嘘ではなく、「そうであったら」という願いであったように。

病気でない振りをするシルヴィアの「受けろといわれれば検査も受けるし必要ならば薬だって飲む。だけどどんな薬かは教えないで。貴方も調べようとしないで」という言葉が現実逃避だと言い切れないように。

舞台「ピーターパン」が決して完全に幸福とはいえないシルヴィア一家の冒険を具象化しながら、最後には子供達が現実社会に帰るように。

母親を亡くしたピーターの「母さんが見える」】と言うセリフには胸が詰まります。
こうやって子供は大人になっていくのだ。
ネバーランドに行ったり帰ってきたりしながら、面と向かって受け入れるには辛すぎる現実をすこしづつ受け入れて。

■印象に残るシーン
本当にたくさんあるのですが上手く説明できないので箇条書きにしておきます。

散歩に行くバリにお散歩道具一式を渡すメイド。
釣竿なんて何に使うのかと思ったら…もう変な人決定です。主人の上演作品の不評を告げる記事を切り抜いて渡すところにメイドの心使いを感じます。

最初にシルヴィア一家と対面するところ。
ベンチの下で「牢獄に閉じ込められているの」という兄弟に「本当は大人なんだけど子供に付き合っています」ではなくて、子供の世界にすっと入り込めている感じがしてとても良かった。

バリの空想の世界。
熊がきぐるみで、ダンスホールがきらびやかなサーカスなところに大喜び。(バートンワールドとあんまり変わらないなあジョニーさん)波がうそんこなところ、ネバーランドの孔雀が人間なところ。空想の世界がリアルに忠実なのではなく、うそっぽくお芝居がかっている演出なのが嬉しかった。

シルヴィアの自宅で。
「ピーターパン」を上映するシーンで、真っ先にシルヴィアの母親が手を叩くことに胸が熱くなりました。現実しか見ないような人でも空想の世界に生きることが出来るのですね。

ラスト。
シルヴィアの葬儀の際、母親は彼女がバリを後見人に指定したを告げ、バリはそれを受け入れます。
母親は現実での責務を全うしますし、バリはピーターと語るくだりで空想での責務を全うする。

現実と空想のどうしても相容れない軋みを描きつつも、それぞれの長所を尊重し、それぞれの責務を果たす。「事実から着想した物語」として本当に素晴らしいと思います。

[ HOME ]