ハウルの動く城(はうるのうごくしろ)

キャッチコピー:
あの人は弱虫でいい!

ストーリー

19世紀末の欧州の近未来画家たちが思い描いた、魔法と科学が混在する世界。ある日、18歳の少女ソフィーは荒地の魔女に呪いをかけられ、90歳の老婆になってしまう! そんな彼女の前に現れたのが、魔法使いのハウル。ふたりは、ハウルの居城で奇妙な共同生活を始めるが、その巨大な城は、なんと、4本の足で歩く、人々が恐れおののく「動く城」だった……。

コメント(予告編)

映画館通いをする前から宮崎作品はテレビで欠かさず観てきましたし、通うようになってからは劇場で観て来ましたが、これ程行く気を削がれた作品はありません。/予告編はダーク気味で良かったのに…なんでキムタクなんですか?今まで俳優さんを使うことはあっても超ベテラン系の方ばかりだったじゃないですか。納得がいきません。そんなとこまでディ○ニー作品(の吹替え)の真似しなくてもいいじゃないですか…。凹む。

レビュー

お薦め度:★★★★
私はこれを観て宮崎監督って本当に売れる人になったんだなあ…こんなやりたいことをやりたいように作らせてもらえるなんて、と思いました。

■おおよそ小説家や漫画家そして映画監督といったたくさんの人に観てもらって何ぼの芸術家が本当に好き勝手に創りたいものを作れる時期は実に限られています。
ひとつは売れる前、同人誌的に純粋に好きなものを描いていれば幸せ、作品で自分を含む誰かを養わなくてもいい時期。もうひとつは大御所になってどんな作品を作っても「この作家だから」という理由で資金回収が見込める時期。
このどちらでもない中途半端な売れ方をしている芸術家は自分の芸術性と世間の売れ筋や製作者側の目論見との微妙な駆け引きが必要になってきます。

宮崎監督が現在どの位置なのかは言うまでもないでしょう。

■宮崎監督の好きなように作った、童話と今までの宮崎アニメの要素をふんだんに盛り込んだ感じ。魔法が万能なくせに、展開上都合の悪いところは魔法の力も及ばないファンタジーの世界なので、1シーン1シーンを刹那的に楽しむ作品。
この作品は賛否両論だったのでどの辺が相容れない人が多いのかしらと思って観ました。

なんとなく納得。キャラクターの性格・背景描写が妙に少ないのですね。うすっぺらいし、宮崎アニメには珍しく具体的な目的や信念をもって生きている感じもない。

■ハウルの【へたれ具合】には結構受けました。この作品にはまる人の一部にはこのハウルの【駄目っ子ちゃんぶり】が好きな人もいるんじゃないかしら。いや私も一寸危なかったかも、前半のあのうざい前髪ごしの眼差しって一部マニアは大好きです(笑)。

髪が変な色にそまって凹んだと「きれいじゃなきゃ駄目なんだ…」きめそめそしてドローっとなる】ところが妙に漫画的表現でうけました。そんな彼に【自分と同じもの】を感じて好感を持つソフィー。

細身で優しそうな物腰、何事にも動じない性格、【と思ったら意外に彼もコンプレックスの塊】。自分の内面を一度さらけだしたらそこからの行動とか動きが楽しかった。なぜ【モデル歩き】なのだハウル。どうして【立ち止まると常に肩幅に足を開いて腰に手を当てる】のだハウル。【自意識過剰の駄々っ子かっこつけマン】で笑える。

観る前からブーイングだったキムタクは意外に変ではありませんでした。逆に気になったのはソフィーの賠償さん。若いときにちっとも若く感じないのには正直まいった。一人の人で年齢の演じ分けって難しいのだから矢張り本職の声優さんに任せたほうがよかったのではないかと。

■ストーリー展開はいっそ清清しいほどのなさに笑ってしまいました。私は宮崎監督の作品で特に好きなのは「ナウシカ」「ラピュタ」「紅の豚」なのですがこのなかでは「紅の豚」に近い印象。ある意味バカ映画。趣味とご都合主義まっしぐら。

自分の容姿や生き方に自信を持てなかったソフィーが、呪いを受けた途端妙に開き直って前向きになったり。
カブ頭の案山子が【根拠なくハウルの城を連れてきた(これは連れてきた訳ではないと思うけど…)り、それが都合よくときめきの魔法使い(ハウル)の城】だったり。
いきなり乱入してきた老婆を魔法使いが【何の抵抗もなく受け入れたり】。
火の悪魔カルシファーは【人間のソフィーにはかなり特異な存在のはずなのに「老人になっていいことは驚かなくなること」(…ってあんた中身は若いでしょうが)とすんなり受け入れたり】。
呪いのせいで老婆の姿に変えられている【と知っているのにハウルが何も言わない】。
魔法が使えないはずの王宮にソフィーの危機を(おそらく魔法で)察して】ハウルが現れたり。
根拠もなく何故かハウルが【ソフィーの家に似せた家を作ったり】。
いきなり【過去の世界に行ってみたり】。

でもそんなことは気にしてはいけないのです、だってファンタジーなんだもん。愛の力は万能なんだもん。

■メッセージ性もさほど無い様な気がします。
人間外見よりも内面と言うには小鼠ちゃんだったソフィーが【最終的に目元ぱっちり】。ソフィーの外見が【内面の変化で変わるのは判るんだけど、だったら寝ている時に元の姿にもどるのが】よくわからない。

恋愛についても、【最初の出会いからして一目ぼれ的なので徐々に二人の距離が近づいている】という感じもない。【心臓=心のないハウルが自己愛という自意識の塊だということや、心の無い人をソフィーが愛したという矛盾にも触れていない。】ファンタジーだから何でもかんでも「愛の力」で解決しているし。(しかし宮崎アニメ史上最も【キスシーン】が多かったのでびっくりした)

■戦争についても単に危険な場所という位の価値しかなく、【「それでは戦争は終わりにしましょう」で終わってしまう。】大体どんな理由で戦争していたのかが描かれていない。戦争の意味も無い、大義も無い、目的も無い。

もちろん戦争などと言うものは最初は立派な大儀があったとしても最終的に何が目的だったか判らなくなるものだけど、この作品の戦争は初期段階のはずなのに何の為に国王が戦争を仕掛けたのかも描かれていない。国単位の威信をかけての戦いの大儀が「無し」では困るのです。

だからこそ大儀は無からもっともらしいことを紡ぎ足してくる(「国の防衛」とかな)。 そもそも【一方的に終わりましょう、と言っているけど相手国が承諾するくだりもなく明確な和平のシーンも描かれていない。ハウル達が幸せになったからといって=国の人々が幸せになった訳ではない】。

さらに言うならば、「【今までは目的無く戦っていたハウルが守る者をみつけそのために戦った】」というくだりがあるけれど、何故【弱虫ハウルが目的も無く戦っていたのか、国王の招集を最後まで拒んでいたはず】なのに。そもそも【愛するソフィーと一緒にいる時に(敵でも問題有りだし、味方ならなおさら)軍艦に喧嘩を売ると言うのがよくわからないなあ。弱者を守るならばまずなりを潜めて】しかるべき。

■この作品物語に一本の線が通っていないんですよね。ちなみに「千と千尋」でも同じでしたけど。
魔法(呪い)を解いてもらいたかった女の子が、一目ぼれした魔法使いの家に転がり込み、こんな生活も結構良いかもと思っていたら、魔法使いの命が危ないので魔法(悪魔との契約)を解くことに奔走するお話】。
最終的に【ソフィーの魔法が解けたのも結果論】でしかない。

この監督って舞台設定が常に現実(的レトロ)とsf、ファンタジーを混在させていて、その比率が変わるだけなんですが、今回は「千と千尋」よりももっとファンタジー要素が高くて、さらに現実とのハードルが低い。魔法使いといっても超常能力というよりも、ものすごい有名人とか芸能人ぐらいの特異でしかない。

童話って文章描写に忠実に描くとこんな感じなのかなと思いました。 『むかし、ひとりの帽子屋の娘がいました。娘はつつましく、せっせと働いて毎日のパン代を稼いでいました。』で、主人公の描写が終わってしまうような童話。「千色皮」と「カエルの王さま」「氷の女王」などの要素を感じました。

瞬間瞬間を楽しんで前後のつじつまを考えない。そんなものだと割り切れば結構楽しめると思います。
呪いが愛する人のキスで解ける】ところもお約束ですし。
きっとこの作品がもっとコメディタッチだったら受け入れられたような気がします。微妙にリシアスだから「よくわからない」と思うのかな。

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