A.I.(えーあい)

キャッチコピー:
ディビットは11歳 体重27キロ 身長137センチ 髪の色、ブラウン  その愛は真実なのに その存在は、偽り

ストーリー

愛という感情をインプットされたロボットとして誕生したデイヴィッドは、母親を永遠に愛し続けるようプログラムされていたが、まもなく不治の病に冒されていた夫妻の実の息子が冷凍保存から生き返ったため、あっけなく捨てられてしまう。愛をインプットされた少年ロボットの心の旅を描く感動作。

レビュー

お薦め度:★★★★
何だか非常に「おしい」感がありました。
初回は映画館で鑑賞しました。感動したのも関わらず何か釈然としないものを感じたのを覚えています。今回tvで鑑賞したことによってその理由がわかりました。
これはこれで別に駄作ではないのですが、こんなに非常に優れた設定をもっと生かしたストーリーを展開してくれたら、本当に素晴らしい作品になったのに。

■何故かと言うと主人公のデビットが子供でロボットという矛盾した存在だからです。
「刷り込み」をする前のデビットは実にロボット的な存在です。ロボット三原則をきちんと守っています。

しかし「刷り込み」をした後のデビットは子供らしい行為をしてその三原則をやすやすと破ります。人間の言うことを聞かないし、自分を守る為に人間を生命の危機に晒すことを厭わない、そして自分を故障させるような行為をする。

どこかのサイトで「ロボット三原則を人間が遵守したならばそれは本当に優れた人間だ」と言っていました。確かに自己の存在を守り、他者の決めたモラルを守り、決して他人を傷つけない。この優先順位を守ることの出来る人間は完璧といえるかもしれません。

ロボットはこの理論でいうのならば「人間の完成形」です。そして子供は「イノセンス」でも述べていましたが「人間の未完成」の姿です。

序盤で夫婦はデビットを会社に返すか否かを口論しますが、そこには決定的に価値観の隔たりを感じます。夫はデビットを機械人形としか考えていないのに対して妻はデビットを人間と同じ存在と捉えている。デビットがいかに矛盾した存在であるかがわかるシーンです。 夫の言い分にきっと彼女はこう反論したかったことでしょう。「人間の子供ならあんなばかげたことはしないって言うの?」

■捨てられたデビットは「本当の男の子」になる為に旅に出ます。
しかしこのお話には「本当の男の子」になる過程が描かれていないと思うのです。私から見ると彼は捨てられる前から「本当の男の子」となんら変わらない思考を持っていると感じます。機械的な思考ではなく純粋に母親を慕っているからです。

例えばこれが「こっちにきてはいけない」と言われた為にその場を動けなくなり「貴方が本当の男の子であったなら…」という母親の悲痛な言葉を耳にして「本当の男の子になれば彼女のもとに行ってもいい」と解釈してその方法を探しに行く、という展開にしてくれたなら私はもっといい作品だと感じたと思います。

私はロボットと人間の明確な違いは「精神」や「思考」だと思っています。損得勘定や合理的ではない感情に左右される結論を出すのが人間です。
「本当の男の子になって彼女のもとに行く」命令が、母親への思慕に変わる段階を見せてくれれば、人間ではないのに人間らしい感情をもってしまった子供ロボットの(sfならでは、ピノキオに自分を重ねるデビットにしか表現できない)内面の痛みを感じることが出来たと思うのです。

■この作品は随所に寓意的な意味が込められているような気がします。
冒頭で「愛される側のモラルはどうなのか?」と問うシーンや、一緒に旅をするジュード・ロウ演じるロボットが大人向けのセクサロイドだということや、自分達が創造したくせにロボットを憎む人間達、【「自分だけは特別」と信じているデビットが実は量産されていたことを知るシーン】は、子供が現実を知る、特別だと信じていた自分が実際は世界の大勢の一部だと自覚する、大人への段階を示していると感じます。

しかしデビットの感情は唯一つのまま変わることが無い為に、「sf版『ピノキオ』」が「sf風味『母を訪ねて三千里』」になってしまった気がするのです。

彼のひたむきに母を慕う気持ちは本当に純粋で、ラストで【大切な最後の一日をすごす親子の姿】は涙なくしては観ることができません。

でも私はこう思う。
ラストが【永遠に願い続けて終わった話だとしたら。】デビットが単純なロボットであったなら決して感じることのない切ない心の痛みに、私はこんな人間らしい感情も持たなければ良かったろうにと思ったことでしょう。

そして彼は永遠に子供のままでした。【先に親がいなくなると言う子供がどうしても乗り越えなくてはいけない辛い義務を放棄して。
最後の一日の後に、ロボットであるデビットただ一人が永遠を生きたとしたら私はその痛ましさに涙したと思います。(…というか私は最後にテディが二人を見守っていることに相当に打ちのめされたのですが…これからテディはどうなっちゃうの??)

「イノセンス」でこんなセリフがあります。
「もし人形達に言葉があったなら『人間になりたくなかった』と叫ぶでしょうね」

sfであり主人公がロボットであること、作られた感情が真実になる過程を描いてくれたなら、そしてその感情ゆえに持たなければいけない暗い一面を描いてくれたなら、この作品は本当に心に残る良作になったはずなのにと思わずにはいられません。

■追記。
先日tv番組でスピルバーグ監督がこんなコメントをしていました。 「世界中で不幸な気持ちを感じている人が、映画を見ている間は幸せな気持ちを味わって欲しい」

その言葉を聞いて何だか納得をしました。「ターミナル」でも述べましたが、彼の描く作品には心底心の汚い人間は存在しないのです。ただ、私の好みで言うのならばスイカの甘みが塩で引き立つように、嫌な人格もいてしかるべしだと思うのですね。

これは勝手な推測ですが【2000年後の宇宙人の「君の今までの人生は余り幸せとはいえなかった。私たちは君が望むことを出来るだけ叶えてあげようと思うよ」】はスピルバーク監督の心だと思います。

人間の男の子になる事を、母親に愛されることを切に願ったデビットを不憫に思い、この世界を構築する神様たる監督が「せめてこうであったなら」という気持ちで付け足したエピソードだと。
私はこのラストはこの設定・展開で出来る限りの最高のハッピーエンドだと思います。 この監督の作品が広く万人に愛される理由はここに有るのでしょう。

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