アイ・アム・サム(あいあむさむ)

キャッチコピー:
いっしょなら、愛は元気。

ストーリー

スターバックスで働く7歳の知能しか持っていない中年男サムは、ホームレスの女性が出産した自分の娘、ルーシー・ダイアモンドと幸せに暮らしていた。しかし7歳になったルーシーはサムの知的能力を追い抜いてしまい、サムは父親として養育能力がないという判断をソーシャル・ワーカーに下されてしまう。知的障害を負っている父親と、幼い娘の純粋な愛を描いた感動作。

レビュー

好き度:★★★★
うーん微妙な作品。
このサムとルーシーという親子だけを限定してみるなら「よかったね」で終わるけど、これを全てのハンディ・キャップをもった親と健常者の子供に当てはめることができるかというとそれは「no」だ。

■この作品で褒めるところは沢山あります。主に演技面と障害を持った人の研究?です。 opのサムが砂糖を揃えるシーン。きっちりと色別にそろえるところ、しかもまとめて取るのではなくて一個一個取っては差し込みなおす所。冒頭からしてこれですから、ショーン・ペンの演技は徹頭徹尾凄いのであります。

それ以外にも障害者の仲間達もまたすごい…映画の情報をやたら覚えているとか、被害者妄想の塊とか。いちいち一人ずつ個性をつけてくるところが一寸勘弁してくださいと思う位に緻密に表現されています。

この作品で注目されるようになったダコタ・ファニングちゃん。従来の「天才子役」なんて目じゃないほど演技が凄いです。6歳でどうしてその表情が出来るんだ。なぜカメラを意識しないんだ。

■問題は解決している?
確かにサムは七歳児程度の知能であり、ルーシーはこの作品の時間では七歳の誕生日を迎えているから知能は横並びというのかもしれない。
でもルーシーはすでに年齢以上に物事を冷静に観ている。

初めて行ったお店で馴染みの物がないと癇癪をおこしている「パパ」を観る彼女の目は悲し気で、世間が自分のパパをどう思っているかを考えてとても傷ついている。
彼女は世間がサムという父親をどのように見ているか、また実際問題父親がどんな存在かも冷淡ともいえる目でみている。

だから客観的に見て、精神的な面でルーシーを救済するタイミングはもうすでに過ぎ去った後です。「本当のパパじゃない」と言っていた事がサムにばれた時、ルーシーは逃げ出すけれどきっとサムを傷つけたことを後悔したはず。彼女は世間のパパの評価に傷つき、悩み、そして年齢不相応にも立ち直った。
私はこの父親と一緒にいる!と誓ってしまった後なので、今更ソーシャルワーカー達がどうこういったところで彼女の心は変わりません。

で、結局この作品のオチは【養父母と一緒にルーシーは住み、近所にサムが住みお休みの日には皆で仲良くサッカーをします】…な終りなんですが。

これで作品中に提起された問題「知的障害を持った父親は子供を育てることが出来るか?」が解決しているように思えない。

障害を持った人でも周囲のサポートがあれば子供が育てられる。この世知辛い世間も捨てたもんじゃないですよ。というのがこの話の主旨なんだと思うんですが。 やっぱり保護プログラムが言っているように、サムは親としての責任は果たせないと思う。

結局、問題の解決になっていないような気がする。ルーシーは養父母の元で育てられサムと一緒に遊ぶ、では周囲のサポートというよりも完全にオンブにダッコのような気がするのだが。
私にはサムの愛情はおじいちゃん・おばあちゃん的な愛情だとおもうのです。なんていうか責任がない。

多分この作品、社会的地位がなくても子供を愛せる父親のサムと、社会的地位があっても上手く子供を愛せない母親のハリソン弁護士を対照的に描いているはずなんです(日本の予告編では親子愛に焦点を当てすぎているので、一寸外された気になります。)

ハリソン女性弁護士は忙しさのために物(キックボードだったか?)で愛情の代価を払おうとしてしまいます。対してサムは一身にひたむきにルーシーと一緒の時間を過ごします。どちらも子供を愛しているには違いが無い。でもその愛情を子供が喜ぶかどうかはまた別の問題。
彼女はこんなに子供を愛しているのに愛し方が判らないと涙ながらに訴えます。私はここで泣く。

養父母の問題も同様です。
養母がどんなに心を砕いてルーシーを愛しても、彼女の心はかたくなにサムを求め続けます。
彼女も弁護士同様に、ルーシーをこんなに愛しているのに彼女の心は変わらない、と涙します。幼い少女にそんなことを求めても仕方がないし、それがこの作品の主旨ではないと分かっていますが、この養母が気の毒でならないので私はここでも泣く。

ルーシーは結局養母には心を向けないのかしら?ほんの【絵の赤い水玉ぽっち】?
(っていうか養父はどこにいってしまったものやら。ほんの一寸のカットしか出てきませんよね。きっと養父母の条件が父母ともに揃っている、じゃなかったらきっと父親をいなかったものにしたんだろうな。)

これにとどまらず、周囲にいる障害を持つ人たちや、法廷に立つ人々が実は自分の子供や親との問題を抱えているように描いている点は好感が持てます。
だだ、この事件でその人たちにその点の問題に少しは解決策がみつかったかというとそうではない。ひきこもりの女性はサム親子のために法廷に出てきてくれたけど、結局その点をやりこめられてしまった。きっと彼女は再び引きこもったままだ。

誰しも自信を持って子供を育てられる訳じゃないし、お金はなくても勉強が教えられなくてもサムのように一生懸命していくれるって子供にとっては本当にいいことで、子供に親の愛情が必要なのはわかるけど。普通の人でも完璧な子育ては無理だから、知的障害を持ったサムでも子育てが出来るということにはならないと思う。

こういうことをグルグルと考えても、サムが知的障害をもっていてこれからも7歳以上の知能を持つことが無い為に頭打ちになってしまう。こうして考えてみると、子供の成長と共に親だって成長しなくてはいけないんだとつくづく思う。

先にも言ったけれどルーシーは年齢不相応に成長が早いので、「ルーシーにパパが必要」なのではなくて「サムにルーシーが必要」だと思わざると得ない。
結局、どうなるのでしょうか?この親子は。

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